12月, 2014 | 淡路プラッツプラッツからのメッセージ
スポッチャへ
淡路プラッツの居場所では運動が好きなメンバーもいるため、スポッチャへ行って来ました。
平日なので人が少ないだろうからと楽しみに行ったのですが、
意外と人が多く、人気のあるバスケットボールコートやバレーボールコートなどは待っている人が多かった。
卓球をしながら目当てのバスケットボールコートが空くのを待って。
いざ!3on3!
しばらくすると・・・
ハァハァ、ゼェーゼェー・・・
息はきれる、足はもつれる。
幸いにもケガをする事無く休憩へ、
その後はバレーボールやバトミントン、ゲームセンターでレースゲームをして終了。
遊びまわったイベントでした。
2014年12月16日
親ごさんとの関わりについて ~動ける人がまず動くこと/動かせることから動かすこと~
石田 貴裕
~動ける人がまず動くこと~
今年で23年目を迎える淡路プラッツは元々親ごさん達が立ち上げた団体です。それゆえ若者支援とは言いながらも、半分もしくはそれ以上に親ごさんへの関わりを今も昔も変わらず重要視しています。面談・講座・親の会を通じて親ごさんには“若者本人ができること”だけではなく、“親ができること”にもスポットを当ててお伝えし、時に泣いたり笑ったりぶつかったりもしながら“今家族の誰かができること”をスタッフと共に一緒に考え実践していきます。
それは何のためにでしょう?もちろんそれは若者本人の自立を目指してであり、言うなればそれは同時に家族の自立をも意味しています。ですから、親ごさんもスタッフもスタート時に目指す先は同じであり、若者だって程度の差こそあれ心のどこかでは同じように自立したいと思ったり感じている部分もあるものです(たとえ今はそうは見えなくても)。
その共有目標を胸に、まず親ごさんから若者本人へ、そしていずれ居場所体験から就労体験へ、さらに自立へと向かって出発します。ですが、場合によってはご家族が時間の経過とともにその進み具合の遅さにしびれを切らしてしまったり、即効性のある変化を求めて焦ってしまったり、先の見えない不安感から時間の無駄ではないかと疑心暗鬼になってしまうこともあります。もちろんプラッツも残念ながら万能ではなく、また「自立支援」自体が多少時間のかかる部分もあるので、スタッフとして心苦しく本当に申し訳ないという思いに駆られることもありますが、それ以上に親ごさんは辛く苦しいといった窮地に陥ることだってあります。
そんな時、それでもなお、お伝えしていることがあります。それは、「それでも動ける人が動き続けましょう」という提案です。つい忘れがちな「何のために?」に立ち返り、始めに共有した目標を思い出して、何とか一緒にこの窮地を脱しましょうと。親ごさんも辛い、でも若者本人はもっと辛く苦しく不安で怖くて動けない場合もあり、その場合、若者本人のサポートのために今動ける人は親ごさんだけかもしれないのです。だからこそ、淡路プラッツはまず親ごさんに寄り添うことが本当に大事だと考えています。もちろん若者本人にも寄り添うこと、むしろそれをメインの支援とも考えています。また、「居場所支援」は若者たちのためにあり、スタッフは若者たちとの関わりや繋がりを何より最重要視しています。ですが、誰よりも一番長く彼らに寄り添い続けるのはやはり親ごさんであり、支援機関はあくまでそれをサポートすることしかできません。だからこそプラッツは、ご家族と関わらせていただいている間は、そのご家族の人生と本気で向き合い、若者・家族の自立の形を模索しながら、新たな親子関係を創造しようとされておられる親ごさんに寄り添いたいと考えているのです。
正しい子育ての定義が曖昧なように、ひきこもる若者やご家族に対する正しい関わりや支援というようなものもまた曖昧なものだと思っています。ですが、今までプラッツが関わらせていただいたたくさんのご家族や若者たちとの関わりから、親ごさんが子どもと接する際の「これは避けたほうがいいと思われる関わり方、心の持ち方、姿勢・態度、声のかけ方」などはお伝えすることができます。100%ご自身の家族に当てはめることは難しくても、そこには沢山のヒントやアイデアがあります。それをうまく掴まえて自分の家族に活かすことはとても重要な一歩になると考えています。セミナータイトルにもある通りまさに“親から始まる1歩目”です。それら、いい意味で諸先輩方から引き継いだ“うまくいかなかった関わり”を上手に活用して頂いて、親ごさん自身が行き詰まることなく、決して一人で孤独だと感じることなく、少しでもポジティブでラクに日々過ごせることが何より重要だと感じています。
親ごさん自身が子どもとの関わりの中で、うまくいかなくてもまた立ち上がることができるように、間違ったと思われてもまたやり直せるように。それは“正しい関わり方”を手に入れていただきたい訳ではなく“そのご家族に合った関わり方”を手に入れていただきたいからであり、そこが一番大切なことだと思っています。そして何より、そこに取り組もうとしておられる親ごさんの姿こそが、その後の子どもとの関係性がより良くなっていくことに大きく関わっているような気がしてなりません。
~動かせることから動かすこと~
面談・講座・親の会を通じた親ごさんへの関わりは、多かれ少なかれそのご家族が本来個々に持つ「生活習慣」や「家族文化」への働きかけになると思っています。それは言い換えれば、そのご家族の“環境”と“価値観”にアプローチすることに他なりません。これはこちらとしては本当に恐縮な部分もあり、ご家族にとっては「うるさい!大きなお世話だよっ!」という話であり、また、いらんお節介だとも思っています。でも、それでもそこに触れなければ“若者の本音を理解していくこと”とかけ離れていくのもまた事実だと思っています。
「どーせ親に言っても無駄」「わかってもらえない」「今までもそうやったし、伝わるハズがない」「意見を押し付けてくるだけで、勝手やし聞いてくれたことがない」などなど、親に対する気持ちとして実際の若者たちからよく聞く言葉です。これらは果たしてただの不満や悪口でしょうか?パッと聞くと、悪態をついているように聞こえますが、もしかすると本当はただ親に「気持ちをわかってほしい」と思っているのではないでしょうか。心の中で、本当は支えて欲しい、助けて欲しいと思っているのではないでしょうか。ただ、現在の状況では親も子もお互いにそれを素直に言えない関係性が出来上がってしまっている。すなわち個々の家族文化や価値観が邪魔をしてもはや歩み寄れなくなってしまっているのかもしれません。だからこそ、今一度その家族文化や価値観を大きく見渡しながら、何かできることはないだろうか、何か風通しのいい方法はないだろうか、また、どこかに良いヒントやアイデアが転がっていないだろうかなどを、親ごさんと一緒になって考え、探し続けます。同時に、「正直、意味があるんか無いんかイマイチわからんな~」と、親ごさんが感じておられるかもしれない講座や面談にも足を運んでいただきつつ、その中で様々な心境や状況をお聴かせいただいたり実際に試していただきながら、結果の曖昧さやグレイゾーンを含む形でスタッフ共々、時に血眼になって時に必死のパッチで関わり続けるのです(もちろん面談・講座にはものすごく意味はあります)。
もちろん「家族」の事ですので、風通し良くといってもそれは一筋縄ではいかないこともあり、取り組み始めは不器用なものになるかもしれません。ご家族が現状に至るには長い歴史もおありだったはずですので、それを何らか動かそうとするには、やむを得ず“どんくさい関わり”になる場合もあるのではないでしょうか。だって、それが家族であり親子ですもの。親子同士の関わりが、スマートに、スタイリッシュに、なんてそんな今ドキなものにはならないでしょうし、そもそもそんな必要ありませんし、そんなの全然親子同士じゃない、と私は思います。やっぱり親子だから、時にぶつかったり、離れたり、それでもまた歩み寄ったり。例えば、周りからするとどこかいびつな家族関係に見えたり、また他人に言っても理解されないけれど、でも、その親子なりにバランスが取れているような関係性があったり。それでいいんじゃないでしょうか。それが家族であり親子というものだと私は思っています。
ただその中で、年を経て年齢を重ねるとともに家族の関係も自然と変わり、日常を過ごす構成メンバーも自ずと変化していき、例えば、祖父母や兄弟姉妹がいた頃に“当たり前・普通・常識”だった物事や価値観が、今現在は必ずしも当たり前になり得なくなってきている、といった場面もしばしば登場してきます。そんな時、例えば、おせち料理や演歌や様々な風習などの在り方が時代とともに変貌していくように、それぞれのご家族のあり方もまた、その時々に合わせて変貌していけばいいと思うのです。そう考えると、もしかすると少し見かたを変えるだけで、「昔はこうだった」とか「世間体的にはこうだった」などに縛られず、今いる家族一人ひとりにとってベストな関係になるように、日常や価値観のさまざまな部分を見直せる余地があるかもしれません。その中で、もしかすると今まで感じなかったことを感じたり、笑えなかったことが笑えたり、許せなかったことが許せたりすることもあるかもしれません。例えばそこに目を向けてみること、それが「生活習慣」や「家族文化」へ触れることだと思っています。決して無理をすることではなく、広く大きく見渡した時に、可能であれば「動かせることから動かすこと」。それもまた親から始まる第一歩ではないでしょうか。
時代や世代とともにご家族との関わりも変容していきますが、私自身、今までの多くのご家族との関わりがあったからこそ、それに支えられまた裏打ちされて今のこの親ごさんとの関わりに行きついていると感じています。もし、見失ったならまた始めに立ち戻り、若者・家族の自立を見据えて今できること。『動ける人がまず動くこと』『動かせることから動かすこと』。淡路プラッツは、その親ごさんの一歩目に寄り添うところからスタートしたいと思っています。
2014年12月1日
カテゴリー: スタッフエッセイ
NOと言わないメキシコ人
安原 彩子
12月のメキシコは街中がクリスマスの飾りでにぎわい、さすがカトリックの国だけあって約1か月かけてキリストの誕生を祝います。4月はハカランダが歩道を紫色に染めますが、12月は真っ赤なポインセチア(メキシコ原産!)がクリスマスを盛り上げます。クリスマスと対照的に、お正月を日本のように祝うこともなく、あっさり次の1年がスタートします。前回書かせていただいた「メキシコ=私の居場所」。今でこそ私の居場所と思えるメキシコは、始めは何ともオソロシー国でした。
Noと言わないメキシコ人
日本の面積約5倍の広さをもつメキシコ。首都のメキシコシティーはごちゃごちゃしていて人やモノが密集していて狭いようで、やはり広い。土地勘もない外国人の私は、道に迷う度に街を歩くメキシコ人に道を尋ねることがよくありました。「Todo derecho(ずっとまっすぐ)」、「Esquina a la mano derecha(その角を右)」と教えてもらったとおりに行っても…ん?着かない…?挙句の果てに歩いてきた逆の方向を言われたり…。今までメキシコ人に道を聞いて、「No se(ちょっとわかりません…)」「No conozco por aqui(ここら辺は知らないので…)」と言われたことはほとんどなく。オソロシーほど親切に答えてくれますが、無事に目的地へ着けたこともほとんどありませんでした…。親切なメキシコ人の言うことを半分信じてはまた別のメキシコ人に尋ねては自分で判断して進む。ということを繰り返しながら、最小限の誤差で目的地に辿り着く技を身につけました。メキシコではその他いろんなことも同様に、一歩進んでは三歩ほど下がることを繰り返しては自分で折合をつけながら進んでいく大切さを教えてもらいました。
メキシカン・ジョーク
メキシコでは家族や友達が集まって誕生日やクリスマスを祝ったり、特に何もない土曜日でも昼間からみんなで集まってご飯を食べたり飲んだりして過ごします。私も飲むことは大好きなので、サッカーを見たりドラマを見たりしながらメキシコ人といろいろ話して過ごすのは楽しい時間です。ビールやテキーラをいくら飲んでも酔わないメキシコ人が、いい感じにできあがってきた時に始まるのがメキシカン・ジョーク大会!みんな我こそはと、チステ(メキシカン・ジョーク)を言い始めます。が、オソロシーほど面白くない…。分からない。時事ネタから下ネタまで。子どもも大人も一緒に笑ってる。“全然笑えへんし…早く終わって…”と思っているのは私だけで、メキシコ人は私に構わず説明されても面白くないチステを繰り返し、さらに、「ジャパニーズ・チステ教えて」と、むちゃ振りしてくる…。そんなメキシコ人との飲み会を重ねていくうちに、「とりあえず、居てもいいか。」と思えるようになっていきました。チステはわからなくてもメキシコ人はオモシロイ。チステはわからなくても一緒に飲みたいと思える。同じ時間を共有する大切さを教わりました。
何ともオソロシー、楽しいことばかりじゃないのが「メキシコ=私の居場所」。イヤなことたくさん、面白いこともっとたくさん経験してメキシコが私の居場所になりました。安田が以前のスタッフエッセイ(ゆうほどう245号 表紙が仏像の号に掲載)にネガティブとポジティブのことを書いていましたが、まさに、メキシコは超ネガティブからの超ポジティブ変換国!そうすることで独自の文化や風習を創造してきたすばらしい国だと思います。
Noと言わないメキシコ人やチステを強要するメキシコ人ばかりではないので、是非、機会があれば一度メキシコの超ポジティブ変換を体験してみてください。
カテゴリー: スタッフエッセイ