スタッフエッセイ | 淡路プラッツ - パート 5プラッツからのメッセージ
安田 昌弘
今年も春が来ました
とても待ち遠しかった春が来ました。桜がめっちゃ好きだからというわけではありません。寒いのがめっちゃ嫌いだからです。寒さは何となく活力を奪うんですよねぇ。秋が深まり、肌寒くなり始めたころから、春まであとどれくらいと指折り数え、カウントダウン。春の訪れをじっと待っておりました。どことなく、虫たちとおんなじ感覚です(笑)。
そんな春は大人にとっても子どもにとっても、その身辺にさまざまな動き、変化がある時期です。そして今年は、私にも変化がありました。3月末で、8年間勤務していた某自治体での職員のための健康なやみ相談員の職を終えました。この間、仕事場は掛け持ちだったのですが、今年はいよいよ淡路プラッツ一本です。暖かくなってくるので、いろいろな課題に取り組んでいきたいと思います(寒くなったら、徐々にフェイドアウト・・・はないように)。改めまして、今後ともよろしくお願いいたします。
メンタルヘルスは大切です
さて、これまで行っていた健康なやみ相談ですが、その相談室は職員の健康管理の一環で(特に心理的なサポート)、職場の中に設けられました。そこでの私の主な仕事は職員の心理的な相談を受けることでした。最近よく耳にする、いわゆるメンタルヘルス相談です。労働者の心の健康問題は、近年、重要なテーマです。相談される職員には、休職中の人もいましたし、これから復職を考える人、現在悩みを抱えながらどうにか仕事に来ている人、もう休んでしまいたいという人、さまざまです。仕事場での不調は、仕事の質量、人間関係、健康問題や家庭でのことなど、これもさまざまな原因があります。心身相関という言葉がありますが、心が不調になると、身体も不調になります。悩みごとが深まると、胃が痛い、眠れないなど体調不良が起こり、大きな病気に至らないとも限りません。また逆に、身体に病気など不調を生じると、心も健康な状態でいられなくなるということは当然あります。風邪をひいただけでも気分は塞ぎます。心と身体はお互いに関係しており、「健康」とは身体だけ気をつければ良いというものでもありません。「心の不調」は、いわゆる健康な人にとっても、いつ何時訪れるかもしれません。だから、日頃からのメンタルヘルスケアはとても大切です。なので、労働者でもある親御さんや支援者のみなさんに取りましても、「心身の健康にはぜひご留意を!」と、職業人カウンセラーから最後の一言 (笑)
社会人の相談をして感じたこと
職員の方の相談をお聴きし、一緒に次のステップを考え、方向づけていく過程はとても有意義であり、組織・労働という枠組みで、その人たちの心の問題に取り組むことは、私にとってとても貴重な経験となりました。組織の中の相談では、確かに「組織」「仕事」という観点に重きを置くことは必須です。職員の健康問題は組織にとっても損失になります。しかし、「仕事と人」ということを考えるにつけ、私が感じたことは、現在就業中である一人の人の悩みに関わること、今現在仕事に就けず、進路が定まらない若者の自立の悩みに関わることは、その本質に大きな違いがないのではないかということでした。「仕事上の悩み」と「自立・就労の悩み」、具体的に見ると、置かれている立場はまったく異なるようですが、自分の進む先に困難が立ちはだかって、うまく立ちゆかない状態にあるということは、個々人にとっての『人生の悩み』であり、そしてまだ続きのある『通過点』に他ならないと。当面の問題、「仕事」「自立・就労」の課題に沿って、その問題対処の方法を考えるだけでなく、これからも幾度となく訪れる『人生の通過点』にサポートしているという感覚が大切なのではないかと改めて感じさせられました。
労働者に対するサポートは同じ組織にその職員が所属する限りにおいて、持続的・継続的なものとなり、またその必要性があります。このような支援の感覚を、プラッツの若者自立支援に活かしていければと考えている新年度です。
2015年4月1日
カテゴリー: スタッフエッセイ
メキシコ研修・体験記
浅井紀久子
2月18日~27日までの10日間、メンバーさんとともに、メキシコへ“研修”という名の旅行に行ってきました。
*異文化に触れる*
片道、飛行機で15時間程度。まず、「こんなに長時間、飛行機に乗ったことがない…何かずっと揺れてるし…。」と少し恐々な道のりで、着いた頃には何だかぐったり。しかし、次の日からの体験は、そのぐったり感を忘れさせてくれるものでした!
観光先の一つひとつの感想は、誌面の都合上、書ききれませんが…。メキシコシティでは、テオティワカン遺跡やグアダルーペ寺院などを見て回り、その後メラケという海に近い小さな町で5日間過ごしました。そこでは、海に入ったり、隣町まで足を延ばしたり。目にする風景も、食事も(これがまた、美味しい!)、聞こえてくる話し声も…とにかく、すべてが新鮮で、刺激的で、毎日五感がフル活動でした。
*人々に出会う*
まず、同行させていただいた、NPO法人はぐれ雲さん(※1)のメンバーさんが、全員“初めまして”でした(笑)。そして、メラケで出会った、ゴローさん・ジュンコさん夫妻(※2)とご夫妻のもとで働くグリスとカルロス、遊びに(?)いらしてた、たけさん。たった10日でこんなにたくさんの初めましての方と会うことが、まず、日常そんなにない…。色々なことを体験とともに教えてくれる皆さんと、日に日に表情が柔らかくなって、自然と笑顔が増えていく一行。これまた、知らない間に閉じていた感覚が、ほぐれていったような印象でした。
*その中で、感じたこと…*
新しいもの・人々に触れる中で、私が感じたことの一つが、選択することや判断することの“難しさ”と“単純さ”でした。メキシコ(特にメラケ)では、ゆっくりなペースで過ごしていましたが、一方で、とっさの判断に迫られることもありました。日常の些細なことですが、なんせ言葉が通じない上、風習もよくわからないので、その判断が合っているのかどうかが、わからない。元々優柔不断なところがあるので、色々考え出すと、もう、ものすごく難しい…。最初は、例えば道にしても、窓口にしても、食事にしても…何を・どれを選んでいいのやら、でした。
でも、しばらくすると、慣れてきました。わからないことは、相変わらずわからない。ので、ある意味、“どれでもいいや”になってきます。決して投げやりなのではなく、その時一番惹かれたり、好きな感じだったり、なんとなくこれかなぁと。そうなってくると、選ぶことが単純になりました(笑)。判断基準が自分にしかないので、どれを選んでも、自分にとっては間違っていないのです。その時に、あ、これ…と思ったものが、その時の一番。なんか違う…と思ったら、その時点で修正していけばいいか、と(はい、メラケで道に迷いかけました)。自分の感覚を頼って何かを決める、ということから、あまりにも遠ざかっていたことに気づくことができました。
ゴローさんが、スーパーで、「日本人は、すぐわかる。せかせか歩いてるから。パッと目につく。メキシコ人、見てみな。みんなゆっくり歩いてるよ。色んなことに興味持ちながら、周りキョロキョロしながらさ。」と。確かに、みんなどことなくゆっくり…。でも、自分の周囲にちゃんと興味を持ちながら、これ!と感じたら足を止める。そんなペースが、実は地に足がついているようにも見え、私も色々よそ見してみようと思ったのでした。直感を少しでも磨くために…。
※1)富山県にある宿泊型の青少年施設で毎年代表の川又さんとメンバーがメキシコのゴローさんのところに行っている。
※2)メラケ在住で日本料理店を開いておられるご夫婦。
2015年2月1日
カテゴリー: スタッフエッセイ
闇との闘い方…日常、だが非日常的。
宮武小鈴
【暗黒部隊の存在】
「私は日夜、暗黒部隊と戦っている」。
これだけ書くと、小鈴さんはやっぱりヤバイ人やなぁ……と思われる。
その暗黒部隊がどこに居てるのか、が問題だ。それはあっさりいうと、自分の中にある。自分の心の暗愚との闘いともいえる。そして日々、勝ったり負けたりしている。
さて、この〝闇との闘い〟は物語として暗喩されていることが多い。小説、ゲーム、漫画、映画、あらゆる物語の中に表現されていてご存知ファンが非常に多いことも、このような世界感に案外、感覚の根底で多くの人が共感できているからだとおもう。そしてこの“暗喩”は普段の生活の中にもあって、それに気づくと日常のあちこちに“闇との闘い”がベースとしてあることになり、一気に日常の非日常感が高まってファンキーだ。でも気をつけたいところは、それを簡単に「正義と悪」との闘いと言ってしまうと本当に面白くない。やはり「光と闇」という表現の方が深いものがあり、しっくりくる。善と悪が拮抗している世界というよりも、光輝くおとぎの世界が〝闇の世界〟と仲良くセットになっているのだ。
闇との闘いのバイブルといえば「ゲド戦記」。アニメ映画でもあったが、原作の方がやはり秀逸だ。舞台は架空の世界だが、〝己の闇〟がどこにあるのかが書いてある。たとえば、主人公が顔に負った傷の由来、「闇」が潜んで自分を待っている世界の境界、闇に親和する女性の話、などうすら怖いと感じる場面もある。それから、現実的にわかりやすく書いてあったのは『三国志』(吉川英治)だ。一言でいうと人が衰退していく様子がわかりやすく描かれている。特に死ぬ前の英雄には共通の〝兆候〟があり(諸葛孔明は違っていたが)、人のあり方として学ぶところは多い。
ところで、いつも一つ疑問がある。「闇の根源は何か」。
何万年前から、どの時代から、いったいどの人から、どの猿からはじまったんだろう?
【闘い方がある】
“闇との闘い”にはいくつか重要な要素がある。「モンスター的なものが出てくる」「仲間とトラブルを乗り越える」「でも案外たったひとりで立ち向かわないといけない場面がある」。これら全てが自分の中にある世界だと思うと、日常世界が一気に深度が増す。
ところで、“闇との闘い方”の方はどうだろう。剣でぶっ刺す、弓でぶち抜く、罠にかけて捕縛する……これくらいがイメージしやすいが、私のお勧めはこちら。ハリ―ポッターの中で、狼男のリーマス・ルーピン先生が〝闇の魔術に対する防衛術〟を教えるのだが、それは恐怖の対象を〝笑い〟に変えるというもので、吉本新喜劇で育った関西人には非常になじむかもしれない。これもあり。
この“闇との闘い方”を工夫するために日々の中に研究があり、本を読んだり、遊んでみたり、何かを作ってみたり、人と話してみたりする。
だが本当は、一番怖いことは、自分の暗黒部分が暗黒かどうかがわからなくなってしまう、ということだ。それを正義にしてみたり、善なるものと思ってしまった時に、誰かを巻き込んで深刻だったり時には悲惨だったりする状況が生み出されてしまう。
そのために、他人が居ると思っている。「それ、闇やん」「それは案外、闇ちゃうで」と暗に教えあえるような、時には声をかけあえるような関係の、友人知人家族が居て欲しい。それが仲間かもしれない。本の著者でもいい、過去の偉人でもいい、架空の人物でもいい、気付かせてくれれば。
とにかく個人の闇が、バランスを崩していろんな形で膨張していかないように……。
2015年1月1日
親ごさんとの関わりについて ~動ける人がまず動くこと/動かせることから動かすこと~
石田 貴裕
~動ける人がまず動くこと~
今年で23年目を迎える淡路プラッツは元々親ごさん達が立ち上げた団体です。それゆえ若者支援とは言いながらも、半分もしくはそれ以上に親ごさんへの関わりを今も昔も変わらず重要視しています。面談・講座・親の会を通じて親ごさんには“若者本人ができること”だけではなく、“親ができること”にもスポットを当ててお伝えし、時に泣いたり笑ったりぶつかったりもしながら“今家族の誰かができること”をスタッフと共に一緒に考え実践していきます。
それは何のためにでしょう?もちろんそれは若者本人の自立を目指してであり、言うなればそれは同時に家族の自立をも意味しています。ですから、親ごさんもスタッフもスタート時に目指す先は同じであり、若者だって程度の差こそあれ心のどこかでは同じように自立したいと思ったり感じている部分もあるものです(たとえ今はそうは見えなくても)。
その共有目標を胸に、まず親ごさんから若者本人へ、そしていずれ居場所体験から就労体験へ、さらに自立へと向かって出発します。ですが、場合によってはご家族が時間の経過とともにその進み具合の遅さにしびれを切らしてしまったり、即効性のある変化を求めて焦ってしまったり、先の見えない不安感から時間の無駄ではないかと疑心暗鬼になってしまうこともあります。もちろんプラッツも残念ながら万能ではなく、また「自立支援」自体が多少時間のかかる部分もあるので、スタッフとして心苦しく本当に申し訳ないという思いに駆られることもありますが、それ以上に親ごさんは辛く苦しいといった窮地に陥ることだってあります。
そんな時、それでもなお、お伝えしていることがあります。それは、「それでも動ける人が動き続けましょう」という提案です。つい忘れがちな「何のために?」に立ち返り、始めに共有した目標を思い出して、何とか一緒にこの窮地を脱しましょうと。親ごさんも辛い、でも若者本人はもっと辛く苦しく不安で怖くて動けない場合もあり、その場合、若者本人のサポートのために今動ける人は親ごさんだけかもしれないのです。だからこそ、淡路プラッツはまず親ごさんに寄り添うことが本当に大事だと考えています。もちろん若者本人にも寄り添うこと、むしろそれをメインの支援とも考えています。また、「居場所支援」は若者たちのためにあり、スタッフは若者たちとの関わりや繋がりを何より最重要視しています。ですが、誰よりも一番長く彼らに寄り添い続けるのはやはり親ごさんであり、支援機関はあくまでそれをサポートすることしかできません。だからこそプラッツは、ご家族と関わらせていただいている間は、そのご家族の人生と本気で向き合い、若者・家族の自立の形を模索しながら、新たな親子関係を創造しようとされておられる親ごさんに寄り添いたいと考えているのです。
正しい子育ての定義が曖昧なように、ひきこもる若者やご家族に対する正しい関わりや支援というようなものもまた曖昧なものだと思っています。ですが、今までプラッツが関わらせていただいたたくさんのご家族や若者たちとの関わりから、親ごさんが子どもと接する際の「これは避けたほうがいいと思われる関わり方、心の持ち方、姿勢・態度、声のかけ方」などはお伝えすることができます。100%ご自身の家族に当てはめることは難しくても、そこには沢山のヒントやアイデアがあります。それをうまく掴まえて自分の家族に活かすことはとても重要な一歩になると考えています。セミナータイトルにもある通りまさに“親から始まる1歩目”です。それら、いい意味で諸先輩方から引き継いだ“うまくいかなかった関わり”を上手に活用して頂いて、親ごさん自身が行き詰まることなく、決して一人で孤独だと感じることなく、少しでもポジティブでラクに日々過ごせることが何より重要だと感じています。
親ごさん自身が子どもとの関わりの中で、うまくいかなくてもまた立ち上がることができるように、間違ったと思われてもまたやり直せるように。それは“正しい関わり方”を手に入れていただきたい訳ではなく“そのご家族に合った関わり方”を手に入れていただきたいからであり、そこが一番大切なことだと思っています。そして何より、そこに取り組もうとしておられる親ごさんの姿こそが、その後の子どもとの関係性がより良くなっていくことに大きく関わっているような気がしてなりません。
~動かせることから動かすこと~
面談・講座・親の会を通じた親ごさんへの関わりは、多かれ少なかれそのご家族が本来個々に持つ「生活習慣」や「家族文化」への働きかけになると思っています。それは言い換えれば、そのご家族の“環境”と“価値観”にアプローチすることに他なりません。これはこちらとしては本当に恐縮な部分もあり、ご家族にとっては「うるさい!大きなお世話だよっ!」という話であり、また、いらんお節介だとも思っています。でも、それでもそこに触れなければ“若者の本音を理解していくこと”とかけ離れていくのもまた事実だと思っています。
「どーせ親に言っても無駄」「わかってもらえない」「今までもそうやったし、伝わるハズがない」「意見を押し付けてくるだけで、勝手やし聞いてくれたことがない」などなど、親に対する気持ちとして実際の若者たちからよく聞く言葉です。これらは果たしてただの不満や悪口でしょうか?パッと聞くと、悪態をついているように聞こえますが、もしかすると本当はただ親に「気持ちをわかってほしい」と思っているのではないでしょうか。心の中で、本当は支えて欲しい、助けて欲しいと思っているのではないでしょうか。ただ、現在の状況では親も子もお互いにそれを素直に言えない関係性が出来上がってしまっている。すなわち個々の家族文化や価値観が邪魔をしてもはや歩み寄れなくなってしまっているのかもしれません。だからこそ、今一度その家族文化や価値観を大きく見渡しながら、何かできることはないだろうか、何か風通しのいい方法はないだろうか、また、どこかに良いヒントやアイデアが転がっていないだろうかなどを、親ごさんと一緒になって考え、探し続けます。同時に、「正直、意味があるんか無いんかイマイチわからんな~」と、親ごさんが感じておられるかもしれない講座や面談にも足を運んでいただきつつ、その中で様々な心境や状況をお聴かせいただいたり実際に試していただきながら、結果の曖昧さやグレイゾーンを含む形でスタッフ共々、時に血眼になって時に必死のパッチで関わり続けるのです(もちろん面談・講座にはものすごく意味はあります)。
もちろん「家族」の事ですので、風通し良くといってもそれは一筋縄ではいかないこともあり、取り組み始めは不器用なものになるかもしれません。ご家族が現状に至るには長い歴史もおありだったはずですので、それを何らか動かそうとするには、やむを得ず“どんくさい関わり”になる場合もあるのではないでしょうか。だって、それが家族であり親子ですもの。親子同士の関わりが、スマートに、スタイリッシュに、なんてそんな今ドキなものにはならないでしょうし、そもそもそんな必要ありませんし、そんなの全然親子同士じゃない、と私は思います。やっぱり親子だから、時にぶつかったり、離れたり、それでもまた歩み寄ったり。例えば、周りからするとどこかいびつな家族関係に見えたり、また他人に言っても理解されないけれど、でも、その親子なりにバランスが取れているような関係性があったり。それでいいんじゃないでしょうか。それが家族であり親子というものだと私は思っています。
ただその中で、年を経て年齢を重ねるとともに家族の関係も自然と変わり、日常を過ごす構成メンバーも自ずと変化していき、例えば、祖父母や兄弟姉妹がいた頃に“当たり前・普通・常識”だった物事や価値観が、今現在は必ずしも当たり前になり得なくなってきている、といった場面もしばしば登場してきます。そんな時、例えば、おせち料理や演歌や様々な風習などの在り方が時代とともに変貌していくように、それぞれのご家族のあり方もまた、その時々に合わせて変貌していけばいいと思うのです。そう考えると、もしかすると少し見かたを変えるだけで、「昔はこうだった」とか「世間体的にはこうだった」などに縛られず、今いる家族一人ひとりにとってベストな関係になるように、日常や価値観のさまざまな部分を見直せる余地があるかもしれません。その中で、もしかすると今まで感じなかったことを感じたり、笑えなかったことが笑えたり、許せなかったことが許せたりすることもあるかもしれません。例えばそこに目を向けてみること、それが「生活習慣」や「家族文化」へ触れることだと思っています。決して無理をすることではなく、広く大きく見渡した時に、可能であれば「動かせることから動かすこと」。それもまた親から始まる第一歩ではないでしょうか。
時代や世代とともにご家族との関わりも変容していきますが、私自身、今までの多くのご家族との関わりがあったからこそ、それに支えられまた裏打ちされて今のこの親ごさんとの関わりに行きついていると感じています。もし、見失ったならまた始めに立ち戻り、若者・家族の自立を見据えて今できること。『動ける人がまず動くこと』『動かせることから動かすこと』。淡路プラッツは、その親ごさんの一歩目に寄り添うところからスタートしたいと思っています。
2014年12月1日
カテゴリー: スタッフエッセイ
NOと言わないメキシコ人
安原 彩子
12月のメキシコは街中がクリスマスの飾りでにぎわい、さすがカトリックの国だけあって約1か月かけてキリストの誕生を祝います。4月はハカランダが歩道を紫色に染めますが、12月は真っ赤なポインセチア(メキシコ原産!)がクリスマスを盛り上げます。クリスマスと対照的に、お正月を日本のように祝うこともなく、あっさり次の1年がスタートします。前回書かせていただいた「メキシコ=私の居場所」。今でこそ私の居場所と思えるメキシコは、始めは何ともオソロシー国でした。
Noと言わないメキシコ人
日本の面積約5倍の広さをもつメキシコ。首都のメキシコシティーはごちゃごちゃしていて人やモノが密集していて狭いようで、やはり広い。土地勘もない外国人の私は、道に迷う度に街を歩くメキシコ人に道を尋ねることがよくありました。「Todo derecho(ずっとまっすぐ)」、「Esquina a la mano derecha(その角を右)」と教えてもらったとおりに行っても…ん?着かない…?挙句の果てに歩いてきた逆の方向を言われたり…。今までメキシコ人に道を聞いて、「No se(ちょっとわかりません…)」「No conozco por aqui(ここら辺は知らないので…)」と言われたことはほとんどなく。オソロシーほど親切に答えてくれますが、無事に目的地へ着けたこともほとんどありませんでした…。親切なメキシコ人の言うことを半分信じてはまた別のメキシコ人に尋ねては自分で判断して進む。ということを繰り返しながら、最小限の誤差で目的地に辿り着く技を身につけました。メキシコではその他いろんなことも同様に、一歩進んでは三歩ほど下がることを繰り返しては自分で折合をつけながら進んでいく大切さを教えてもらいました。
メキシカン・ジョーク
メキシコでは家族や友達が集まって誕生日やクリスマスを祝ったり、特に何もない土曜日でも昼間からみんなで集まってご飯を食べたり飲んだりして過ごします。私も飲むことは大好きなので、サッカーを見たりドラマを見たりしながらメキシコ人といろいろ話して過ごすのは楽しい時間です。ビールやテキーラをいくら飲んでも酔わないメキシコ人が、いい感じにできあがってきた時に始まるのがメキシカン・ジョーク大会!みんな我こそはと、チステ(メキシカン・ジョーク)を言い始めます。が、オソロシーほど面白くない…。分からない。時事ネタから下ネタまで。子どもも大人も一緒に笑ってる。“全然笑えへんし…早く終わって…”と思っているのは私だけで、メキシコ人は私に構わず説明されても面白くないチステを繰り返し、さらに、「ジャパニーズ・チステ教えて」と、むちゃ振りしてくる…。そんなメキシコ人との飲み会を重ねていくうちに、「とりあえず、居てもいいか。」と思えるようになっていきました。チステはわからなくてもメキシコ人はオモシロイ。チステはわからなくても一緒に飲みたいと思える。同じ時間を共有する大切さを教わりました。
何ともオソロシー、楽しいことばかりじゃないのが「メキシコ=私の居場所」。イヤなことたくさん、面白いこともっとたくさん経験してメキシコが私の居場所になりました。安田が以前のスタッフエッセイ(ゆうほどう245号 表紙が仏像の号に掲載)にネガティブとポジティブのことを書いていましたが、まさに、メキシコは超ネガティブからの超ポジティブ変換国!そうすることで独自の文化や風習を創造してきたすばらしい国だと思います。
Noと言わないメキシコ人やチステを強要するメキシコ人ばかりではないので、是非、機会があれば一度メキシコの超ポジティブ変換を体験してみてください。
カテゴリー: スタッフエッセイ
会話
藤村 泰王
以前、ネットを見ている時に目に留まった本がある。その本は購入しようか悩んで結論を出す前にすっかり忘れていたのだが、たまたま本屋に寄ったときに見つけ、思わず買ってしまった。その本の題名は「お父さんがキモい理由を説明するね」(リンダブックスより出版)で著者の中山順治さんとその娘(中学生)がサシでマジトークした内容をまとめた本だ。
僕には2人の娘がいる。まだ幼稚園に行き始めたばかりだが、いずれ思春期に入り、キモいといわれる前に心の準備をしておこうと思って読み始め、まだ序盤と最後のまとめの部分しか読んでないがなかなか面白そうだ。著者は家族からも気持ち悪がられるほど娘を溺愛し、その溺愛ぶりを冷静に批判する娘が色々なテーマ(恋愛・死・生きる意味など)でマジトークしている。それを週1回、3ヶ月間続けたそうだ。
だからといって、将来、自分の娘とマジトークが出来るとは思わないし(出来るならやってみたいという気持ちもあるが…笑)、このエッセイを読んでいる皆さんに親子のマジトークを勧めているわけではない。しかし、若者本人の状況によってはチャンスがあればマジトークするのも若者にとって有意義なものだと思う。
プラッツでのテーマトーク
プラッツに来ている若者たちもこの娘さんと同じように自分の将来や現状、その他様々なことについてもしっかりと考えている。でもそれらを話す場所がないことや恥ずかしさ、自信のなさからくる「自分が話すことなんか聞いてもらえない」という気持ちなどもあり、多くを語らず、自分の胸の内に押さえ込んでいるように感じる。その証拠に面談の中や居場所の中で若者たちは、自分の考えや意見を話してくれるようになる。もちろん最初から自分の意見などを話してくれるわけではない。
プラッツでは普段何気ない会話の最中や毎週行われるナイトプラッツ(メンバーと一緒にお酒を飲みながらわいわい過ごす)で突然テーマト-クが始まることがある。そして、始まる確立はかなりの高確率!その場にいるメンバーやスタッフ関係なく1つのテーマについて全員に話が振られる。誰かが話し終わると質問したり、途中で突っ込みを入れたりするが最後まで聞き、自分はこう思うなんて意見が出たりすることもある。否定されることなくちゃんと聞いてくれる人がいることで話が出来るのだろうと思う。
親子だけでなく
書籍の中で著者は、子どもと話すポイントに自分と子どもの話す量を半々にすること、親の立場を捨てることを意識したほうがいいと書いている。親目線で話すとどうしても「こうしたほうが良い」「それは間違っている」「社会にでたら…」ということを言いたくなり、説教くさくなってしまう。なるべく子どもの意見に耳を傾け、「なぜそう思うのか」を聞くことで子どもの本心を聞き出せたそうだ。
書籍の中のマジトークは著者とその娘さんだから出来た話なのでどの家族にも当てはまる方法ではないが、親子として話すのではなく、1人の人間同士として話すことはどの家族にでも使えるだろうと思う。そして、1人の人間として話すことは親子だけでなく、友人、同僚、上司、部下など全ての立場の人との間に有効だと思う。
今回は僕のエッセイでありながら「お父さんがキモい理由を説明するね」の著者中山順治さんの言葉を引用させてもらうことが多かった。次回のエッセイの時には自分の言葉で書きたいと思う。
2014年11月1日
カテゴリー: スタッフエッセイ
日はまた暮れる
金井 秀樹
ここ数カ月は毎日2駅分を歩いて、夜景を見ながら帰るようになりました。大体徒歩15分~20分程度だから、大した距離でもないけれど、すっかり最近の自分の「毎日できることリスト」(ちょっと大袈裟。笑)の1つに登録されています。
ところで夜(もちろん日によって時間帯は違いますが)9時以降にもなると、終点の駅の改札を抜けて、地上に上がり、橋を渡り終わった付近には、いわゆるガールズバーと称されるお店や、その他、少しいかがわしそうな(主観です)飲み屋さんの客寄せのオニイサン・オネエサン達が立ち並び、「これからいかがっすか〜。」とか、「どうです、お安くしときますよ。」と盛んに声をかけてくる場所があります。どうしてもそこを通らないと帰宅お散歩コースの川縁に降りることができないにも関わらず、最初のうちはこちらの進路を完全に塞いでまで、熱心な勧誘をして下さるオニイサン、オネエサンもいて、「丁寧なお断りなどできかねる」状況も度々あったものでした。でも断り方を失敗(声を荒げたり、無視したり)すると、散歩始めのこちらの気分が良くないのだけれど、オニイサン・オネエサン達も必死(多分ノルマがあるのでは?)で簡単には引き下がらない。だがこちらも行くつもりはない。ということで、その後の散歩を快適にするためにも、何かいい断り方の方法はないものかと思案してみることにしたのでした。
自分の容姿を客観的に眺めてみたり、遊び心も加えて、まず最初に考えたのが、「香港から来たガイジン」になること(笑)。「ハァン?」とか「パードゥン?」とか。オオ!でも聞き返すこと自体が既に自分から寄って行ってしまっているではないか!余計に面倒なことになりそうだ。ということで実施前に却下。次に最初から目を決して合わせない方法。でも逃げれば逃げるほど追ってくるのが、オニイサン・オネエサン達の本能なのです。今まで以上に進路妨害の頻度が高くなってしまったのでした(泣)。じゃあサングラスはどうでしょう?視線を読み取られることもないですから。いやいや、わざわざ夜にそんな格好する必要もないし、今度は違う制服のオニイサン・オネエサン達に声をかけられそうではないか。「免許証見せて」とか「家はどこ?」とか・・・。それはもっともっと面倒だ!
色々と頭の中で考えては見たものの(ほぼ妄想ですが…)、結局のところそんなに色々試してみる必要もなく、しっかり相手を見つめてちょっとこちらも微笑みながら「ああ!ゴメンね〜」(タイミングが絶妙に重要ではある)と言いながら通り過ぎると、不思議と直ぐに諦めてくれることが分かったのでした(もちろん断る人によって違いはあると思います。ええ)。
ところでこちらは毎日そこを通りはするけれども、時間帯による交代制なのか、入れ替わりが激しいのか、もしくは着ている服の印象で変わるのか分からないけれど、客寄せに立つオニイサン・オネエサン達は時間帯や日によって違う顔ぶれが多いように感じられて、「あれ、この間のしつこい進路妨害のオニイサン最近見ないなぁ」ということもあります。ほんの少しの寂しさと共に。
ところがある月が綺麗で風が涼しげな9月のある日の夜、いつもの様にその場所を通りかかると、比較的何度も顔を合わせているオネエサンが、ナント!「今日も!いい天気ですね。」と声をかけて下さったのです。いやはや恐れ入りました。あまりの衝撃に心動かされて、一瞬足を止めそうになってしまいました。こちらはなんとか足と口を動かして「・・・うん。またね。・・・」と手を振るのが精一杯。
でもその日は晴れやかでほんの少し心暖かな散歩が出来たのでした。
2014年10月1日
カテゴリー: スタッフエッセイ
光陰矢のごとし(2014)
安田 昌弘
今年も早や1年の2/3が過ぎ去りました。プロ野球シーズンが終わりを迎える秋は、私にとっては憂いの時期でもあります。ある意味、私の中ではすでに今年は終わったも同然。ついこの前新しい年を迎えたはずなんですが、もう大晦日の心境。「あっ」という間に1年の2/3が過ぎるくらいです。残り1/3なんて、「あ」ともまともに発音できないくらい、瞬く間で過ぎることでしょう。とにかく、あまり時の経つのが早いのはやめてほしい。「あっ」という間のことで、体感では気づかぬまま、確実に身体のあちらこちらに下降線となって刻まれている… それを果たして年輪というのだろうか…
日ごと、寒くなり、日照時間が短くなるダークネスな季節、ネガティブモード全開です。
ネガティブシンキングは良くないのか?
と、ネガティブな面持ちではありますが、私はもともとネガティブシンキングの持ち主です。自然な流れで後ろ向き、さまざまな事柄について、頭の中で目まぐるしくネガティブ展開していきます。ネガティブとは、否定的、消極的、悲観的ということで、ネガティブな人、性格というと一般的にいいイメージは持たれません。しかし、これはあくまでも単に印象ではないかと。根っきりこっきり悲観的で、後ろ向きな人なんてどこにもいないのではないでしょうか。人生、より良く前に進もうと思うからこそ、そのマイナス要素であるネガティブな道が、たくさん、そしてより太く見えてしまうだけなのだと思います。本質的に、人はみな自分を肯定し、ポジティブでありたいと思っています。
ネガティブシンキングには、慎重に物事を見つめ、考えを深めたり、冷静な判断ができたりといい面もたくさんあります。あらゆる困難、課題に対し、常に、冷静に物事をとらえ、あらゆる面から試行錯誤し、局面の打開を図るためこれまでには考えも寄らなかった新しい発想や方法を発見し、光明を見いだす。変ですが、ポジティブなことだらけです。ただ、やっかいなところは、ネガティブシンキングと完全主義は相性が良く、あまり行き過ぎると『重箱の隅をつく』ではないですが、暗黒面にどんどん浸かっていってしまいます。結果、「これは完璧」と思慮を尽くしたであろう道とても容易には飛び込めない。「何か落とし穴があるのでは」と、さらにもつれにもつれるネガティブシンキング。その新たな方向も分かれ道、功罪有り、無性に気になります。『罪』の方が… たまらなく気になります。うずうずします。 -むしろ、その落とし穴を探すのが好きだったりして- 完全無欠は永遠の彼方へ。未来は見通せるなら見てみたいですが、今見切ろうとしても無理があります。
ポジティブであるために
普段、私は面談を通して、親御さんそして若者本人のお話をたくさん聴かせてもらっています。親御さんは子どものことで悩み、不安や焦りに苛まされ、とてもネガティブな状態にあります。また、当事者である若者もうまくいかなかったことが素ともなり、性格的にかなりネガティブな面が顕著となっています(それがゆえ、私は若者にとても親近感を覚えるのですが)。しかし、ネガティブには本来ポジティブな側面があるのです。ポジティブにイメージすることはできても、どうしてもその中のネガティブな予測が顔を覗かせることはありますが、ポジティブな面を意識し、行動することが秘策だと思います。はじめの1歩目講座では、親御さんには少しでも気持ちを楽にしてもらえるよう、『ポジティブであるために』ということで、発想の転換を図ってもらっています。若者には、ネガティブな空気が漂うダークサイドにおいて、少しでもポジティブな要素(笑い、安らぎなど)を見つけてもらえるよう日頃から接しています。
物事は、ポジティブに考える方が好転していくとも言われています。ネガティブの人の最良の未来予測の方法は、ネガティブの中でのポジティブ転換ではないかと思います。行ったり来たりにはなりますが、そのバランスの持ち方が大切なのではないかと思います。
2014年8月1日
カテゴリー: スタッフエッセイ
“居る”場所
浅井紀久子
今年もまた、暑い夏がやってきました。個人的には、暑いのが苦手で、毎年夏が終わるころには身も心もクラクラ…です。
実はこれまで、結構な割合で〝事務の人〟をやっていたのですが、ここ最近は居場所に参加できる機会が増えてきました。そこで、自分なりに居場所について感じたことを書いていきたいと思います。
◆“体験”を“共有”し“気づき”を得ていく◆
もうすでにご存じのとおり、居場所には様々なプログラムがあります。お出かけ・クッキング・アート・映画観賞・カラオケ・徹夜で過ごす・そして、旅行…“まったりする”も、ひとつのプログラムだったり(笑)。
その中で、個々人は他者と関わる中で、ひとつひとつ体験を重ねていきます。それは、リアルタイムで生じていることです。それぞれの体感として何が起こっているのかは、聞いてみないとわかりませんが、小さくても確実に揺れ動きはあります。例え、その時点ではまだ言葉にできなくても。
そして、それは共有されていくものでもあります。一緒に何かを作り上げるとか、一緒に何かを見るとか。同じ時間・同じ空間を共有したもの同士、通じ合う瞬間が訪れたりします。ふとした間で笑いが起こる。いいことばかりではなく、ふとした瞬間に「あれ?何か違う…」と思うことが生じることもある。
そして、その瞬間に感じた体感を、言葉にしていきます。それは居場所の中だけではなく、主にスタッフとの振り返り面談の中で行われたりもします。その時点で、かなり気づきに近づいてきます。自分が、体験して、感じたものは、何だったのか…。振り返りのなかでは、過去のしんどかった経験の再体験も含め、困ったことやイライラ・不満などが、主に出てきます。それらを一つずつ、何が・どうして・どう感じたか…などの視点から、振り返ります。その中で、自分の物事の捉え方に新たな気づきがあったりします。
ただ、楽しかった・嬉しかった、は話として聞けるものではあるけれど、その瞬間に同じ場にいないと共有できにくかったりするのですが…。
◆そこに“居る”こと◆
そういったわけで、居場所には瞬時に通り過ぎる何かがあり、そこに“居る”中で、経験になります。それらの積み重ねが、苦手意識があったけどできた!という達成感・誰かの手助けになれたのかもという、ちょっとした自己肯定感…になり、自信につながっていきます。
最初は頑張って“居る”場所、それが自然体で“居てられる”場所へ。
今回は、瞬間の体験と感情面から書いてみました。居場所自体には様々な側面があり、現実的にコミュニケーションスキルや社会性を獲得していく意味合いもあります。生活リズムを整えることを目標にすることもあります。
やっぱり居場所って奥深い…。
カテゴリー: スタッフエッセイ
『表現×プラッツ』
宮武 小鈴
まっ白い紙に、最初に線を引くとき、ためらいませんでしたか?小・中学校の図画工作の時間を思い出すとき…。
それにいつからか慣れて、思い切りよく描けるようになっていませんか?それともまだ、緊張したりしますか?
《感じる×深める×広まる》
昨年度から、メンバーと『アートプラッツ』という時間を定期的に設けるようになりました。自分でしておきながらなんですが、実は〝アート〟という言葉が大嫌いでした(笑)。軽々しくて、簡単に使われていて、でも本質的な深いところはマジョリティに受け入れられないままにアピールだけしようとしているイメージがあって。
現代美術の要素の一つに〝異端〟だったり〝マイノリティ〟的なものがあります。それは、ある種既存の概念を壊す役割があるからです。作品は、創る者がそれぞれの○○……例えば心の内側?例えば神?命?何か賭けるもの……、と向き合って出てきたなんらかの形だと認識していますが、それと大衆の融合ってありえない…。でも反面、その創り手の「感受性」は理解されるようになったらいいのになと、広まったらいいのになと思っていました、もちろん今もです。一人ひとりの感性が深まって、広がって、それで世界が“平和”になるようなメッセージが“表現されたもの”にはあるといえます。
近頃、“アート”なるものはだんだん市民権を得はじめているような…いやかなり得ています。例えば草間彌生の作品が駅のポスターになっているなどかなり象徴的です。20数年前は彼女の作品は美術手帖等でしか見たことなく、当時いわゆる「美術おたく」と言われていたような(笑)人々の間でしか知られていませんでした。
また、昨年も居場所で旅行しましたが金沢21世紀美術館など現代美術の展覧会に、老若男女が気楽に来ているのをみると、感性進化論的(どんな論だ)には日本は繁栄している、と感じたりもします。
《感じる×続ける》
ところで、ホットな話題(←言い回しが古いな…)ですが7/9に南河内プラッツで「プラッと描いてみよう」というイベントをしました(このゆるいネーミングは某スタッフヤスハラさん)。パネル2枚をつなげて参加者7人の合作。結果、傑作。今月のゆうほどう表紙がそれです。このコラボレーションの醍醐味は『自分以外の人の感受性をライブで見て、聞いて、感じる』ことをシンプルにできるところです。と同時に、『自分の表現を味わってくれる人がいる』ことです。“ひとりひとり、人間って違う”(どっかのキャッチコピーみたい…)というけど、感じ方の違いを日常で意識して体感することは少ないと思います。例えば家族間、親子間、友達間、ご近所間……特に共感して生きざるを得ない間柄では……。
このコラボでは、同じ「お題」で線・形を描きます。例えば今回の大テーマは『台風』(皆で決めた)。その中で出てきた言葉、「ピカッと光る」「オキナワ」「ビューっと」とかを感じながらそれぞれに線を描く。テーマは同じなのに、色や線、形を、自分では想像もできないものを他の人が描く。そのとき、コトバにできない発見とか納得とか理解が生まれたり……(シンプル!)。これを、『最小単位の異文化交流』と呼んでいます(!)。
さておき、この『感性の世界』。色、形、音……すなわち、アート・音楽は、言葉以前の世界のものともいえます。体験することでよくわからないけど元気が出たりします。それは、シンプルで根源的つまり人の「生命」レベルの原始的な状態にコミットしているからだと。
某音楽学者がどこかでこのようなことを言っていましたが、「楽曲を理解したかったら何か楽器をやったり歌ってみたらいい」と。
『アートプラッツ』は自分の感性を理解するために「やってみる」。それを、一緒にやります。“絵”が描けなくてもOK。一緒に線を引こう、形つくってみよう、感じ続けよう、感じたことは言葉にしてみよう……この繰り返し。
『その時、自分がどう感じたのか』をしっかり捉え続けていく、これを進化させてイイもワルイも超えて正解のない「自分の感覚を信じる」ことができるようになる日。
ためらっても、不安でも、なんだかわからなくてもOK。
結果、白い紙に自分が引いた線をなんだかイイ線やな、と感じることができるまで…。
2014年7月1日
カテゴリー: スタッフエッセイ