AwajiPlatz 30Th

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NPO法人淡路プラッツ - パート 17プラッツからのメッセージ

会話

藤村 泰王

以前、ネットを見ている時に目に留まった本がある。その本は購入しようか悩んで結論を出す前にすっかり忘れていたのだが、たまたま本屋に寄ったときに見つけ、思わず買ってしまった。その本の題名は「お父さんがキモい理由を説明するね」(リンダブックスより出版)で著者の中山順治さんとその娘(中学生)がサシでマジトークした内容をまとめた本だ。

僕には2人の娘がいる。まだ幼稚園に行き始めたばかりだが、いずれ思春期に入り、キモいといわれる前に心の準備をしておこうと思って読み始め、まだ序盤と最後のまとめの部分しか読んでないがなかなか面白そうだ。著者は家族からも気持ち悪がられるほど娘を溺愛し、その溺愛ぶりを冷静に批判する娘が色々なテーマ(恋愛・死・生きる意味など)でマジトークしている。それを週1回、3ヶ月間続けたそうだ。

だからといって、将来、自分の娘とマジトークが出来るとは思わないし(出来るならやってみたいという気持ちもあるが…笑)、このエッセイを読んでいる皆さんに親子のマジトークを勧めているわけではない。しかし、若者本人の状況によってはチャンスがあればマジトークするのも若者にとって有意義なものだと思う。

 

 

プラッツでのテーマトーク

プラッツに来ている若者たちもこの娘さんと同じように自分の将来や現状、その他様々なことについてもしっかりと考えている。でもそれらを話す場所がないことや恥ずかしさ、自信のなさからくる「自分が話すことなんか聞いてもらえない」という気持ちなどもあり、多くを語らず、自分の胸の内に押さえ込んでいるように感じる。その証拠に面談の中や居場所の中で若者たちは、自分の考えや意見を話してくれるようになる。もちろん最初から自分の意見などを話してくれるわけではない。

プラッツでは普段何気ない会話の最中や毎週行われるナイトプラッツ(メンバーと一緒にお酒を飲みながらわいわい過ごす)で突然テーマト-クが始まることがある。そして、始まる確立はかなりの高確率!その場にいるメンバーやスタッフ関係なく1つのテーマについて全員に話が振られる。誰かが話し終わると質問したり、途中で突っ込みを入れたりするが最後まで聞き、自分はこう思うなんて意見が出たりすることもある。否定されることなくちゃんと聞いてくれる人がいることで話が出来るのだろうと思う。

 

親子だけでなく

書籍の中で著者は、子どもと話すポイントに自分と子どもの話す量を半々にすること、親の立場を捨てることを意識したほうがいいと書いている。親目線で話すとどうしても「こうしたほうが良い」「それは間違っている」「社会にでたら…」ということを言いたくなり、説教くさくなってしまう。なるべく子どもの意見に耳を傾け、「なぜそう思うのか」を聞くことで子どもの本心を聞き出せたそうだ。

書籍の中のマジトークは著者とその娘さんだから出来た話なのでどの家族にも当てはまる方法ではないが、親子として話すのではなく、1人の人間同士として話すことはどの家族にでも使えるだろうと思う。そして、1人の人間として話すことは親子だけでなく、友人、同僚、上司、部下など全ての立場の人との間に有効だと思う。

 

今回は僕のエッセイでありながら「お父さんがキモい理由を説明するね」の著者中山順治さんの言葉を引用させてもらうことが多かった。次回のエッセイの時には自分の言葉で書きたいと思う。

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日はまた暮れる

金井 秀樹

ここ数カ月は毎日2駅分を歩いて、夜景を見ながら帰るようになりました。大体徒歩15分~20分程度だから、大した距離でもないけれど、すっかり最近の自分の「毎日できることリスト」(ちょっと大袈裟。笑)の1つに登録されています。

ところで夜(もちろん日によって時間帯は違いますが)9時以降にもなると、終点の駅の改札を抜けて、地上に上がり、橋を渡り終わった付近には、いわゆるガールズバーと称されるお店や、その他、少しいかがわしそうな(主観です)飲み屋さんの客寄せのオニイサン・オネエサン達が立ち並び、「これからいかがっすか〜。」とか、「どうです、お安くしときますよ。」と盛んに声をかけてくる場所があります。どうしてもそこを通らないと帰宅お散歩コースの川縁に降りることができないにも関わらず、最初のうちはこちらの進路を完全に塞いでまで、熱心な勧誘をして下さるオニイサン、オネエサンもいて、「丁寧なお断りなどできかねる」状況も度々あったものでした。でも断り方を失敗(声を荒げたり、無視したり)すると、散歩始めのこちらの気分が良くないのだけれど、オニイサン・オネエサン達も必死(多分ノルマがあるのでは?)で簡単には引き下がらない。だがこちらも行くつもりはない。ということで、その後の散歩を快適にするためにも、何かいい断り方の方法はないものかと思案してみることにしたのでした。

自分の容姿を客観的に眺めてみたり、遊び心も加えて、まず最初に考えたのが、「香港から来たガイジン」になること(笑)。「ハァン?」とか「パードゥン?」とか。オオ!でも聞き返すこと自体が既に自分から寄って行ってしまっているではないか!余計に面倒なことになりそうだ。ということで実施前に却下。次に最初から目を決して合わせない方法。でも逃げれば逃げるほど追ってくるのが、オニイサン・オネエサン達の本能なのです。今まで以上に進路妨害の頻度が高くなってしまったのでした(泣)。じゃあサングラスはどうでしょう?視線を読み取られることもないですから。いやいや、わざわざ夜にそんな格好する必要もないし、今度は違う制服のオニイサン・オネエサン達に声をかけられそうではないか。「免許証見せて」とか「家はどこ?」とか・・・。それはもっともっと面倒だ!

色々と頭の中で考えては見たものの(ほぼ妄想ですが…)、結局のところそんなに色々試してみる必要もなく、しっかり相手を見つめてちょっとこちらも微笑みながら「ああ!ゴメンね〜」(タイミングが絶妙に重要ではある)と言いながら通り過ぎると、不思議と直ぐに諦めてくれることが分かったのでした(もちろん断る人によって違いはあると思います。ええ)。

ところでこちらは毎日そこを通りはするけれども、時間帯による交代制なのか、入れ替わりが激しいのか、もしくは着ている服の印象で変わるのか分からないけれど、客寄せに立つオニイサン・オネエサン達は時間帯や日によって違う顔ぶれが多いように感じられて、「あれ、この間のしつこい進路妨害のオニイサン最近見ないなぁ」ということもあります。ほんの少しの寂しさと共に。

ところがある月が綺麗で風が涼しげな9月のある日の夜、いつもの様にその場所を通りかかると、比較的何度も顔を合わせているオネエサンが、ナント!「今日も!いい天気ですね。」と声をかけて下さったのです。いやはや恐れ入りました。あまりの衝撃に心動かされて、一瞬足を止めそうになってしまいました。こちらはなんとか足と口を動かして「・・・うん。またね。・・・」と手を振るのが精一杯。

でもその日は晴れやかでほんの少し心暖かな散歩が出来たのでした。

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光陰矢のごとし(2014)

安田 昌弘

今年も早や1年の2/3が過ぎ去りました。プロ野球シーズンが終わりを迎える秋は、私にとっては憂いの時期でもあります。ある意味、私の中ではすでに今年は終わったも同然。ついこの前新しい年を迎えたはずなんですが、もう大晦日の心境。「あっ」という間に1年の2/3が過ぎるくらいです。残り1/3なんて、「あ」ともまともに発音できないくらい、瞬く間で過ぎることでしょう。とにかく、あまり時の経つのが早いのはやめてほしい。「あっ」という間のことで、体感では気づかぬまま、確実に身体のあちらこちらに下降線となって刻まれている… それを果たして年輪というのだろうか…

日ごと、寒くなり、日照時間が短くなるダークネスな季節、ネガティブモード全開です。

 

ネガティブシンキングは良くないのか?

と、ネガティブな面持ちではありますが、私はもともとネガティブシンキングの持ち主です。自然な流れで後ろ向き、さまざまな事柄について、頭の中で目まぐるしくネガティブ展開していきます。ネガティブとは、否定的、消極的、悲観的ということで、ネガティブな人、性格というと一般的にいいイメージは持たれません。しかし、これはあくまでも単に印象ではないかと。根っきりこっきり悲観的で、後ろ向きな人なんてどこにもいないのではないでしょうか。人生、より良く前に進もうと思うからこそ、そのマイナス要素であるネガティブな道が、たくさん、そしてより太く見えてしまうだけなのだと思います。本質的に、人はみな自分を肯定し、ポジティブでありたいと思っています。

ネガティブシンキングには、慎重に物事を見つめ、考えを深めたり、冷静な判断ができたりといい面もたくさんあります。あらゆる困難、課題に対し、常に、冷静に物事をとらえ、あらゆる面から試行錯誤し、局面の打開を図るためこれまでには考えも寄らなかった新しい発想や方法を発見し、光明を見いだす。変ですが、ポジティブなことだらけです。ただ、やっかいなところは、ネガティブシンキングと完全主義は相性が良く、あまり行き過ぎると『重箱の隅をつく』ではないですが、暗黒面にどんどん浸かっていってしまいます。結果、「これは完璧」と思慮を尽くしたであろう道とても容易には飛び込めない。「何か落とし穴があるのでは」と、さらにもつれにもつれるネガティブシンキング。その新たな方向も分かれ道、功罪有り、無性に気になります。『罪』の方が… たまらなく気になります。うずうずします。 -むしろ、その落とし穴を探すのが好きだったりして- 完全無欠は永遠の彼方へ。未来は見通せるなら見てみたいですが、今見切ろうとしても無理があります。

 

ポジティブであるために

普段、私は面談を通して、親御さんそして若者本人のお話をたくさん聴かせてもらっています。親御さんは子どものことで悩み、不安や焦りに苛まされ、とてもネガティブな状態にあります。また、当事者である若者もうまくいかなかったことが素ともなり、性格的にかなりネガティブな面が顕著となっています(それがゆえ、私は若者にとても親近感を覚えるのですが)。しかし、ネガティブには本来ポジティブな側面があるのです。ポジティブにイメージすることはできても、どうしてもその中のネガティブな予測が顔を覗かせることはありますが、ポジティブな面を意識し、行動することが秘策だと思います。はじめの1歩目講座では、親御さんには少しでも気持ちを楽にしてもらえるよう、『ポジティブであるために』ということで、発想の転換を図ってもらっています。若者には、ネガティブな空気が漂うダークサイドにおいて、少しでもポジティブな要素(笑い、安らぎなど)を見つけてもらえるよう日頃から接しています。

物事は、ポジティブに考える方が好転していくとも言われています。ネガティブの人の最良の未来予測の方法は、ネガティブの中でのポジティブ転換ではないかと思います。行ったり来たりにはなりますが、そのバランスの持ち方が大切なのではないかと思います。

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“居る”場所

浅井紀久子

今年もまた、暑い夏がやってきました。個人的には、暑いのが苦手で、毎年夏が終わるころには身も心もクラクラ…です。

 

実はこれまで、結構な割合で〝事務の人〟をやっていたのですが、ここ最近は居場所に参加できる機会が増えてきました。そこで、自分なりに居場所について感じたことを書いていきたいと思います。

 

◆“体験”を“共有”し“気づき”を得ていく◆

もうすでにご存じのとおり、居場所には様々なプログラムがあります。お出かけ・クッキング・アート・映画観賞・カラオケ・徹夜で過ごす・そして、旅行…“まったりする”も、ひとつのプログラムだったり(笑)。

その中で、個々人は他者と関わる中で、ひとつひとつ体験を重ねていきます。それは、リアルタイムで生じていることです。それぞれの体感として何が起こっているのかは、聞いてみないとわかりませんが、小さくても確実に揺れ動きはあります。例え、その時点ではまだ言葉にできなくても。

そして、それは共有されていくものでもあります。一緒に何かを作り上げるとか、一緒に何かを見るとか。同じ時間・同じ空間を共有したもの同士、通じ合う瞬間が訪れたりします。ふとした間で笑いが起こる。いいことばかりではなく、ふとした瞬間に「あれ?何か違う…」と思うことが生じることもある。

そして、その瞬間に感じた体感を、言葉にしていきます。それは居場所の中だけではなく、主にスタッフとの振り返り面談の中で行われたりもします。その時点で、かなり気づきに近づいてきます。自分が、体験して、感じたものは、何だったのか…。振り返りのなかでは、過去のしんどかった経験の再体験も含め、困ったことやイライラ・不満などが、主に出てきます。それらを一つずつ、何が・どうして・どう感じたか…などの視点から、振り返ります。その中で、自分の物事の捉え方に新たな気づきがあったりします。

ただ、楽しかった・嬉しかった、は話として聞けるものではあるけれど、その瞬間に同じ場にいないと共有できにくかったりするのですが…。

 

◆そこに“居る”こと◆

そういったわけで、居場所には瞬時に通り過ぎる何かがあり、そこに“居る”中で、経験になります。それらの積み重ねが、苦手意識があったけどできた!という達成感・誰かの手助けになれたのかもという、ちょっとした自己肯定感…になり、自信につながっていきます。

最初は頑張って“居る”場所、それが自然体で“居てられる”場所へ。

 

今回は、瞬間の体験と感情面から書いてみました。居場所自体には様々な側面があり、現実的にコミュニケーションスキルや社会性を獲得していく意味合いもあります。生活リズムを整えることを目標にすることもあります。

やっぱり居場所って奥深い…。

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『表現×プラッツ』

宮武 小鈴

まっ白い紙に、最初に線を引くとき、ためらいませんでしたか?小・中学校の図画工作の時間を思い出すとき…。

それにいつからか慣れて、思い切りよく描けるようになっていませんか?それともまだ、緊張したりしますか?

 

《感じる×深める×広まる》

昨年度から、メンバーと『アートプラッツ』という時間を定期的に設けるようになりました。自分でしておきながらなんですが、実は〝アート〟という言葉が大嫌いでした(笑)。軽々しくて、簡単に使われていて、でも本質的な深いところはマジョリティに受け入れられないままにアピールだけしようとしているイメージがあって。

現代美術の要素の一つに〝異端〟だったり〝マイノリティ〟的なものがあります。それは、ある種既存の概念を壊す役割があるからです。作品は、創る者がそれぞれの○○……例えば心の内側?例えば神?命?何か賭けるもの……、と向き合って出てきたなんらかの形だと認識していますが、それと大衆の融合ってありえない…。でも反面、その創り手の「感受性」は理解されるようになったらいいのになと、広まったらいいのになと思っていました、もちろん今もです。一人ひとりの感性が深まって、広がって、それで世界が“平和”になるようなメッセージが“表現されたもの”にはあるといえます。

 

近頃、“アート”なるものはだんだん市民権を得はじめているような…いやかなり得ています。例えば草間彌生の作品が駅のポスターになっているなどかなり象徴的です。20数年前は彼女の作品は美術手帖等でしか見たことなく、当時いわゆる「美術おたく」と言われていたような(笑)人々の間でしか知られていませんでした。

また、昨年も居場所で旅行しましたが金沢21世紀美術館など現代美術の展覧会に、老若男女が気楽に来ているのをみると、感性進化論的(どんな論だ)には日本は繁栄している、と感じたりもします。

 

《感じる×続ける》

ところで、ホットな話題(←言い回しが古いな…)ですが7/9に南河内プラッツで「プラッと描いてみよう」というイベントをしました(このゆるいネーミングは某スタッフヤスハラさん)。パネル2枚をつなげて参加者7人の合作。結果、傑作。今月のゆうほどう表紙がそれです。このコラボレーションの醍醐味は『自分以外の人の感受性をライブで見て、聞いて、感じる』ことをシンプルにできるところです。と同時に、『自分の表現を味わってくれる人がいる』ことです。“ひとりひとり、人間って違う”(どっかのキャッチコピーみたい…)というけど、感じ方の違いを日常で意識して体感することは少ないと思います。例えば家族間、親子間、友達間、ご近所間……特に共感して生きざるを得ない間柄では……。

このコラボでは、同じ「お題」で線・形を描きます。例えば今回の大テーマは『台風』(皆で決めた)。その中で出てきた言葉、「ピカッと光る」「オキナワ」「ビューっと」とかを感じながらそれぞれに線を描く。テーマは同じなのに、色や線、形を、自分では想像もできないものを他の人が描く。そのとき、コトバにできない発見とか納得とか理解が生まれたり……(シンプル!)。これを、『最小単位の異文化交流』と呼んでいます(!)。

 

さておき、この『感性の世界』。色、形、音……すなわち、アート・音楽は、言葉以前の世界のものともいえます。体験することでよくわからないけど元気が出たりします。それは、シンプルで根源的つまり人の「生命」レベルの原始的な状態にコミットしているからだと。

 

某音楽学者がどこかでこのようなことを言っていましたが、「楽曲を理解したかったら何か楽器をやったり歌ってみたらいい」と。

『アートプラッツ』は自分の感性を理解するために「やってみる」。それを、一緒にやります。“絵”が描けなくてもOK。一緒に線を引こう、形つくってみよう、感じ続けよう、感じたことは言葉にしてみよう……この繰り返し。

『その時、自分がどう感じたのか』をしっかり捉え続けていく、これを進化させてイイもワルイも超えて正解のない「自分の感覚を信じる」ことができるようになる日。

 

ためらっても、不安でも、なんだかわからなくてもOK。

結果、白い紙に自分が引いた線をなんだかイイ線やな、と感じることができるまで…。

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「居場所」の役割 ~なぜ居場所が必要か~

石田貴裕

ひきこもる若者たちは、例えば性格的に真面目で素直で優しい人や大人しい人が多く、それゆえいろんなことに気が付いたり気を遣ったりして、苦しくなったりしんどくなったり。例えば、また一方でその真面目さゆえに完璧主義な面があったり、どっかプライドが高かったり、それでいてナイーブだったり臆病だったり打たれ弱いところもあったりして、結果、自信がなくなって人や社会が怖くなったり。

プラッツの「居場所」はそんな若者たちも含め、「何だかしんどいな~、何だか息苦しいな~」と感じている人たちがゆっくりできるための場所であり、ちょっと一休みしてエネルギーを溜めるための場所でもあります。

・居場所のテーマは「経験・コミュニケーション」

居場所のメニューは「コミュニケーション」「レクリエーション」「日常生活体験」の3つがあり、何気ない会話やゲームやスポーツ・アート・音楽・料理・掃除・買い物・イベント・旅行など、「遊び」を通して様々な経験や体験を、自分なりのペースで積み重ねていきます(強制ではありません)。

そこでのテーマは『経験・コミュニケーション』で、スタッフを含むいろいろな人たちとの日々の関わりを通じて、“ユル~い”幅から“濃い~”幅までの人間関係や社会性や他者に対する“慣れ”を身につけていきます。それは言い換えると自分なりの「現実調整」を行うということで、時間と共に例えば、楽しい事もそうでない事も、ノリで超えていける事もそうでない事も、たくさん経験しながらやがて“今の自分”のことを知り、そこから先の自分をイメージして動き出すための大切な期間でもあります。

自信のない若者がどうやって自信をつけるのか?それはひきこもり・ニート・不登校の経験や状態に関係なく、みんなと同じことをやるしかないと思っています。つまり、「経験」を「蓄積」して、それを周りの仲間や大人たちとの関わりで少しずつ「自信」に変えていくこと、それに尽きると思います。時間はかかるかもしれませんが、それが何よりの基本だと思いますし、スキルやHow to等その後いろいろあるのでしょうが、まずは“基本を知っておくこと”が、結果的に一番の近道だと思います。

怖いのは、目安や輪郭やとっかかりもなく“見えないもの”や“想像できないもの”に対峙すること、させられることなんじゃないでしょうか。もっと怖いのは“甘えだ怠けだ”と言われ、“もういい年齢なんだし気合と根性で何とかなるはず”と、一人で盲目的に放り出されることなんじゃないでしょうか。そんなの誰だって怖い。

・「居場所」の役割

居場所の役割は、そんな社会や人に対して若者たちが持つ漠然としたイメージ、ともすれば恐怖にも似たイメージ、すなわち“見えないもの・想像できないもの”を、「経験」というフィルターを通して“目に見えるもの・想像できるもの”というとっかかりのあるものへと転換させていくことにあります。親や他人に与えられた物ではなく、自分で物事を知り喜怒哀楽を感じる中で、例えばぼんやりとした輪郭だけでも見えたり、とっかかりになるものを見つけられれば、若者たちはなんだかんだ取り組み始めたりするんです。ただ、残念ながらこの「経験」だけは親にも誰にも肩代わりは出来ません。だから、居場所では“コケないように”ではなく“コケてからどう立ち上がるか”に重点を置き、いろんなことを経験した実感とともに少しずつ「自信」へと繋げていくことを目指します。そして、場合によっては“挫折体験”にもなりかねないその経験の数々を、場と人の力で“成功体験”へと繋ぎ、落とし込んでいきます。そうやって培って出来るだけ積み重ねた「自信」のタネを、いずれ踏み出す次のテーマ『自立・自活』へとさらに繋げていくために、まずはシンプルに「自分で考え、自分の言葉で話せるようになること」が、居場所支援の大きな流れの先にある目標の一つでもあります。

 ・獲得する大切な“3つのあいまいなこと”

最後に、居場所を通る若者たちが獲得していくもの、身に付けていくものは人それぞれ本当にたくさんあるのですが、代表するものとして3つを挙げます。一つは「打たれ強さ」、もう一つは「受け流す力」、3つ目は「グレイゾーンを受け入れる力」です。

来所当初はとても繊細で感じやすく落ち込んだり、時に自分や他人を責めたりもしながら、まずは居場所に来るのがやっとという状態でスタートする人が多いのですが、いつしか経験と時間と人との関わりが、若者たちのナイーブなガラスのハートをある程度「打たれ強く」し、コケては立ち上がる中で“エエ加減”での「受け流す力」を自分なりに編み出していきます。そして、白でも黒でもなく、0でも100でもない「グレイゾーンを受け入れる力」に取り組み始め、人で例えると“好き・嫌い”“得意・苦手”などはっきり二分したものではなく、“好きでも嫌いでもない人”“得意でも苦手でもないキャラクターの人”としてグレイな部分に置いておける感覚や、程よい距離感を持って人と接することができる力を身に付けていきます。

これらは目には見えにくく、数字にも残りにくい微妙で曖昧な変化ですが、実はこういう事が生きてくうえではとても大切な事であり、ひきこもり・ニートの若者に関わらず、ある意味これ自体が“生きる極意のようなもの”だと思います。同時に、居場所の必要性と役割とは実にこういう部分にあって、目には見えない曖昧な、でも必要な感覚や感情を獲得できる実用的かつ稀有な場だと感じています。

若者たちはそんな“曖昧だけれど大切な3つのこと”を自分なりに獲得していきながら、最初に居場所に来た時よりも、人や社会に対するしんどさや息苦しさを少しずつ緩和して、やがてそこからまた新しい「居場所」を創るようになっていくのです。

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メキシコ

今年もきれいなサクラが満開に咲きました。街がピンク色に染まる4月は、「日本の春だなぁ。」としみじみ感じながら、花よりだんごでお花見をするのが楽しみです。
そして、「今ごろハカランダもきれいに咲いてるかな。」と私が思いを馳せる国があります。それは日本から約12000キロ離れた国、メキシコです。メキシコでサクラと同じように春を感じさせてくれる花がハカランダと呼ばれる紫色の花で、3月から5月は街中にハカランダが満開に咲き、花が散ると道は紫色の絨毯が敷かれたようでとてもきれいです。ただ、メキシコでは日本のように道や公園でお酒を飲むことは違法になるので、お花見はできません(笑)
プラッツの「濃イイ」他のスタッフ同様に、私の経歴もオリジナルだと思うので、自己紹介しながら私の若者支援とメキシコつながり?を書きたいと思います。

私と淡路プラッツの共通点がメキシコと言うことも、不思議なご縁を感じますが、大学でスペイン語を学んだ後、私は旅行会社に就職しました。
しかし、勤務地はメキシコ。日本の会社なのでお客さまは日本人、でも一緒に働くスタッフはメキシコ人。
初めて社会人として働く大変さと、異文化で働く大変さで、1日があっという間でした。
「今日中にこれだけはお願い!」と言っても、5時ピッタリに帰っていくメキシコ人。
金曜日の午後はいつものバーで馴染みの客と飲んでるメキシコ人。
社員旅行は家族、親戚連れで参加するメキシコ人。
母の日は仕事半日で午後は家族で過ごすメキシコ人。
すぐに使い切らないように月2回に分けて支払われるお給料。
そんな国でそんな人達と一緒に働くことに、始めはイライラしたりストレスを感じていました。

でも、彼らと過ごしているうちに、貧困や暴力の絶えない厳しい現実社会にいても、生きるために働き、よく笑い、楽しんでいる。
すごく人間らしい生き方をしていることに気が付きました。

また、私が“フツーそれないわ”と思うことは多々あっても、メキシコが私に“フツー”を押付けることはありませんでした。
一人の人間として、どう考え、何をしたいのか。その応えを否定することもありませんでした。
私はメキシコに行くと、とても安心します。
周りの人達が、「治安、大丈夫?」「麻薬蔓延してるんちゃうん?」と言うように、メキシコ危ないです(笑)。
でも、いつも私を受け容れ、否定することなく尊重してくれる。私が安心して自分でいられる居場所です。
そんなメキシコでの経験が、若者支援や居場所での私の在り方に大きな影響を与えていると思います。

去年、久しぶりにメキシコに行くと、タクシー強盗によく遭うワーゲンタクシーは全て4ドア車に義務付けされていたり、標高2300メートルのメキシコシティーでマラソンブームだったり、日本のアニメ・ゲーム好きが集まるビルがダウンタウンにできていたり、時の流れを感じましたが、メキシコは変わらず私の居場所でした。

メキシコOL時代?から日本人学校、識字学習、若者の就労支援等の経験を経て淡路プラッツに至りますが、最後に淡路プラッツとメキシコ。
メキシコ人でもそこどこ?というくらい小さな村メラケに、若者支援を応援してくれているゴローさんがいます。
プラッツとゴローさんの関係は蓮井さん時代にまでさかのぼり、そして富山のはぐれ雲までつながる壮大な話になるので、新人はここまでにしたいと思います。が、是非、機会があればメキシコを訪れてみてください。
和食よりも先に世界無形文化遺産に登録された、メキシコ料理もおススメです。
ありがとうございました。

安原彩子

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親御さんが自分の生活を楽しんで元気でいてください。

「親御さんが自分の生活を楽しんで元気でいてください。」
僕は面談で上記の言葉を親御さんに必ず伝えさせてもらっている。

子どもの相談できているのに「なぜ、親のことまで」と感じる親御さんは多いのではないだろうか。
実際、親御さんの面談の途中、自分の話になると子どもの話に戻そうとする親御さんが多いように感じる。
特に、来所して間もない親御さんはその傾向が強いように感じられる。
もちろん、子どものことが心配で相談に来ているから当たり前のことで、何も間違っていない。
それでも、僕は、親御さんの話に戻していく。

それは、「親御さんが元気でないと本人も元気になるのは難しい」と思うからだ。
これまでのスタッフエッセイでもあったように、プラッツは親御さんへの関わりを大切にしている。

それは、プラッツが親の会から誕生した団体だからだけではない。
家族は不思議なもので、しんどい雰囲気を持っている家族がいるとそれが他の家族に伝わる。
逆に楽しんでいる家族がいるとそれが伝わっていく。
だからこそ、プラッツは親御さんへの関わりを大切にしている。
親御さんが生活を楽しむことの大切さはもう1つあると思う。

本人たちは社会で生活することに不安や恐怖を感じているところがある。
しかし、社会で生活することは不安や怖さだけでなく楽しいこともたくさんある。

本人たちは不安や怖さに囚われ、楽しさに気づくことが出来ていない。
しかし、親御さんが楽しみながら生活している姿を本人達が見ることで、本人たちの不安や怖さが薄れ、楽しさがあることを知る。

親御さんが楽しんで生活するのは本人達のためでもある。だからこそ、親御さんに元気で、楽しんでほしいと思う。

「いいかげんさ」を身につける。
これは本人さんの面談の時によく伝えさせてもらう。
本人たちと面談や居場所で話をしていると「0か100か」、「白か黒か」という極端な考え方をしていることが比較的多いように感じる。間の「どちらでもない」という曖昧さが本人たちには少ない。
僕が言う「いいかげんさ」とは、悪い意味ではなく「いい塩梅」という意味での「良い加減さ」である。本人たちの白黒思考は真面目さゆえであると思うが、それゆえに、縛られていて身動きが取れなくなっている印象を受ける。他人との距離の取り方、物事に対しての考え方など真面目に考えれば考えるほどわからなくなってしまう。だから、自分の心地良い距離や考え方を身につけることが自分を楽にしてくれるんだと思う。

しかし、この「良い加減」は100人いれば100人が違う。面談の中であなたの「良い加減」はこうですよと言ってあげることは出来ない。本人が生活していく中で見つけていくしかないと思う。だから、自分で勝手に見つけてくれというわけではない。見つけていく作業として居場所がある。居場所での様子や居場所での人との関わり方を本人と振り返る中で「良い加減」を見つけていける。
身につけた「良い加減」が社会に出た時に自分の身を守ってくれる。ストレスや人間関係、その他の様々なことにしても真正面から受け止める方法以外のことを考え、実行することが出来るようになると思う。

「居場所」
人には一息つける場所が必要だと思う。この一息つける場所が「居場所」であると思う。
プラッツの支援メニューの居場所というわけでなく、そこに行けば誰かがいて、自分を迎え入れてくれる。
そして、なんでもない話ができ、安心出来る場所。

プラッツが皆さんにとって、「居場所」になれたらいいなと思います。
最後までお読みいただきありがとうございます。

藤村泰王

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油断して外に出てみたら・・・

油断して外に出てみたら・・・肌が痛い。
そんな厳しい寒さにもめげず、暖かい居場所のはなしが書きたい!と思いながら、スタッフ金井が行ってみたい居場所の世界(フィクションです。笑)にご案内させていただきます。

最初のハードルが低くて安心できること。
今何してるのかとかどんなことに取り組んでいるのか、どこに属しているのかなんて野暮なことは聞かれない。お互い人間でしょって。それから緊張してガチガチになって初会合して、もう二度とこの場に出て来られないっていう、赤面沸騰しそうなトンチンカンな言動や行動をしてしまっても、サラリと流してくれたりフォローしてくれる。次また会いましょうぜ(よ)って。

やっぱり好奇心を刺激される集まりっていいなぁ。
慣れてきて安心して周りが見渡せるようになったら、ああそれワタシも好きなんですという話を極限まで深めてみたり、未知の世界を教えてもらったり、教えたり。話題がだんだん豊富になってくる。気が合う人とはもう秘密もある。人が億劫とかめんどうくさいということがほんの少し減って、なんかちょっとだけ自由になった気がする。いつの間にか色んな人との関わりが生まれている。今日もまたあのドアを開けると、さりげない「お元気」、「ようこそ」っていう視線が迎えてくれる。

出会いを広げてみたくなる。
少し味をしめて、前より少しだけ欲張りになってしまう今日この頃。他にもこんな場所はあるのだろうとか・・・などと。まあでも現実は現実、最近はあう人あわない人もわかってきて、自分の身の置きドコロも心得ている。このへんが満足のしどころだろうかとも思う。
ところがある日、居場所のスタッフ(この人達には謎が多い)の一人が、「やあ、キミの望みはナントナクわかっているヨ」と言う。「というかこの間言いましたヨね」とワタシ。
スタッフは、「ああそうでしたネ。ごめんなさい。では望みが叶うように手配いたしましょう」と黒い電話を手に説明を始める・・・。

その一歩はいつの間にか。
あれから数ヶ月、スタッフがすべてを「叶えてくれた」訳ではなかったけれど、またひとつの場所を紹介された。この間ちょっとした苦悩や忍耐の時もあった。もちろん前の場所には通っている。でも増えた分だけまた出会い、刺激され、最近はいくぶん時間が過ぎるのが早い気がする。
「また冬が来る前には今度は自分で探すか、ごくごく小さいのを自分で作ってみようかしら。」

そして・・・。
例えば恐れと期待は紙一重で、よく分からないものに対する態度の種類(ウラオモテ)の問題なんだろうと、また新しく通い始めた居場所のスタッフが言っていた。どちらにせよ「もうこのまま何も起きないのではないか」という、あの期待の抱きようもないブラックな恐れにはかなわないと今でも思う。「そんな恐れも少し和らぎ始めた気がするヨ。」と言うと、「ふぅーん」というそっけない返事が帰ってきた。

金井秀樹

 

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