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NPO法人淡路プラッツ - パート 18プラッツからのメッセージ

居場所=所属する所

スタッフとしてプラッツで仕事をして丸5年が経ち、このごろ漠と感じることをツラツラと述べてみたいと思います 。

居場所=所属する所
プラッツの利用の仕方には、面談や親の会などもありますが、居場所を利用してもらうということが、やはりサポートの中核でもあります。
スタッフとの面談を通して、個人との関係もでき、そして集団での活動にも参加でき、個と集団の両面からの支援が可能となっています。
ただ、その内容に目を向けると、勉学をする場でもないし、就労訓練プログラムがあるわけでもなく、「何をしているのかよくわからん」と疑問の湧く人もいるでしょう。

しかし、『する事柄』に大きな目的があるわけではなく、その場で『いる』『する』ことそのものに大きな意義があると思います。
これまで動くに動けなかった若者ですが、居場所を利用し、他者と過ごすことで、やがて活気が戻り、活動的になっていきます。
そして、家とは違う場所が『自分が居る場所』とできる、それは、別のところに『所属感』を感じるということです。
自分がその場の一員として受け入れられたと感じ、そして同時にその場が自分の一部となるという気持ちは、自分の存在が社会に受け入れられ、またそのことを自分自身が承認することにつながっていきます。
「自分はいる場所がある、そして自分はいる」といったことを確信できるということでしょうか。
かつて社会の場では、それを学校や仕事場といった場所でなんとなく感じることができましたが、現在はそうできない人もたくさんいますし、そうならない社会状 況というものもあります。

プラッツという場が、そのような安心感を得られる場となる可能性があることは、若者のこれからの社会参画を考える上で大きな意義があるのではないかと思います。

多様な自立のスタイル
近年の若者のひきこもり、ニート支援は、就労の問題として取り上げられることが多くなっています。
非正規労働者の増加、はたまた 年金や生活保護など財政的な問題も 重なり、行政の就労支援の施策も多くなっています。
職業訓練は、仕事につくためのスキルを習得する機会が提供され、とても良い方策だと思われます。
しかし、スキル向上ということはとても有用ですが、若者がストレスの多い環境で仕事を継続できるのかということも実は重要です。
正規職員としての労働は非常にハードなものとなり、非正規などの不安定な就労ともなると、正規職員とは異なり、先にもあげたような所属感を得ることもままなりません。
就職が決まり、一旦は自立ができたと思われたものの、続けることができずに再び就活ということでは心もとありません。

自立支援施設としてのプラッツは、一旦立ち止まった若者が自立に向かうためのサポートを提供し、自立、就労へ、といった一時的な寄り道をする場所というイメージが定着しているかもしれません。
しかし、これはかつて社会に居場所があり、所属感が得られた従来のモデルでもあり、一時期、迂回はするものの、またその同じラインに戻ろうといったスタイルに沿ったものでしかないのかなと疑問にも感じられるところがあります。
現代は、多様なライフスタイルが許容されている時代でもあります。
また、地域で若者を支えるという観点もより求められています。
若者、親、スタッフおよびその他関係者が一体となり、プラッツを所属感の感じられる居場所ととらえ、コミュニティのあり方や新たな自立そして就労のあり方を模索しながら、未来のスタイルはどんなものだろうかと想像しています。

安田昌弘

カテゴリー: スタッフエッセイ

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親にとっても“居場所”?

淡路プラッツは設立21年目となり、当時から続いている“親の会”があります。人数の増減はあれど脈々と続いていることへの畏敬と、変わらず必要とされている状況に心苦しい思いもします。ただ、必要とされる方がいらっしゃる限り、続いていくことを望んでいます。そこは、確実に“親の居場所”となっています。

私は主に、面談を担当させていただいています。なので、若者に関わるよりも、実は親ごさんとの関わりの方が多いです。そこで、私なりに、プラッツが親ごさんにとっての“居場所”になるとはどういうことか…について書いてみたいと思います。

プラッツのメニューでは、親ごさん向けのものは、“面談”“講座”“親の会”とお伝えしています。そこに“居場所”とは出てきません。が、それらをひっくるめて、“親にとっての居場所”となります。

“面談”は、ご家族内のことを個別にお伺いして、お話をお聴きしながら、例えば家庭内での声掛けの仕方や、若者について今後の方針を決めていくものです。その経過のなかで、子どもさんのことでご相談に来られていたはずの親ごさんが、気が付けばご自身のことをお話される場合もあります。「あの時、実は自分はこう思っていたんです…。」「私がああしなかったのは、きっとこういう思いがあったからなのかな…。」など、決して反省と後悔とご自身に対する責めだけではなく、さらにその裏にある思いを語られることもあります。そして、個別の空間なので、ご家族の事情もお話されます。つまり、気兼ねなく何を話してもいい場であり、個々の気づきがあり、それらを元に方針を一緒に決めていく場です。

“講座”は、一般的な概論も含め、ひきこもり・ニート・不登校について勉強することで、親ごさん自身に、客観的に現状を見つめていただけるように…と行っています。日常の中で、若者に対して感情的になってしまったりすることは、自然で当たり前なことだと思います。ご家族なのですから。ただ、時に状況を客観的に見ることで、本当に若者が望んでいるであろうことを捉える・現状をできるだけ感情的にならずに捉えるなどができ、講座はそれを行うきっかけとなります。

“親の会”は、その名の通り、親ごさんが集まって、親ごさん同士で状況や情報を共有する場です。そこでは、面談では語られないことも出てきます。もちろん個々で背景や状況は違えど、“同じ親であること”で共有できることの大きさが、そこにあります。淡路プラッツでは、現在はスタッフが最初と最後に挨拶させていただくのみで、会の中心は親ごさんのみでお話しいただいています。時に、スタッフがいることで、かえって流れを遮ってしまうこともあるからです。そこでは、面談とはまた違った角度での気づきがあります。

以上、3つのメニューを簡単にご説明しましたが、それぞれ特徴もあり、共通点もあります。それが“気づく”ことと“他者に受け止められる”ことです。もちろんそれだけでは進まないので、こちらとしては、具体的なアドバイス・方向性・目標を定めていくこと、場合によっては、より適した他機関をご紹介することもあります。ですが、まずは親ごさん自身が、気づきと第3者に受けとめてもらう経験のもと、肩の荷を少しおろしてもらう。少しだけほっとしてもらう。そして、家に帰って若者と関わってもらう…。そうすることで、声掛け1つとっても、言葉じりではなくニュアンスが違ってきます。そうすると、若者への届き方が変わってきます。その循環で、家族間のコミュニケーションが変化していくこと…を目標に、親ごさんと関わらせていただいています。

そう簡単にはいかないものです。特効薬もありません。なので、親ごさんにも根気が必要とされます。でも、おひとりで、もしくはご家族間のみでは、息詰ってしまうと思います。その時に、気兼ねしなくていい、第3者に話せる“居場所”を、持っておいていただけたらと思います。

浅井紀久子

カテゴリー: スタッフエッセイ

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居場所とスタッフとは?

真面目な話は他のスタッフが書いてくれるかなあと思うので、今回は〝大阪のねーちゃん系エッセイ〟でございます。

近所のお姉さん風
和風、洋風、中華風……いろんな味ありますが、私が13年前にプラッツにフラリとやって来た時〝時々現れるシュッとしたお姉さん〟という立ち位置のはずでした。あれから13年、現在はどうなったかというと体重も5キロ増え、自称〝番台のおばちゃん〟に変化。プラッツに来た若者も居場所で変化しますが、スタッフも変化しますよ、いや進化と言いたい。私は実家も今の住まいもなぜか自家風呂がなく銭湯歴数十年ですが〝番台のおっちゃん・おばちゃん〟は実に不思議な人種なんですよ。女湯と男湯の狭間に位置し、性別を超えてどちらも行き来できる…、そして脱衣所のチャンネル権まで支配しています。
プラッツスタッフにチャンネル権は無いですが、この〝番台のおばちゃん〟は居場所スタッフとしては理想的な立ち位置やなあと感じています。皆が目指す必要は全くもってないですが…。
これは例え話で、若者と老人とか男女とか、声の大小、身長の高低、趣味の深浅、欧米人とアジア人、気圧の高低……社会の中ではある程度の枠があります。そこが〝ユルめ〟に存在するのが「居場所」です。基本的になんでも良く、あいまい。だから、家から出てここに来る若者も〝あいまい〟でいいんです、最初はみんな。

昭和というスキル

思いださなければ忘れそうになりますが、私が小学1年の頃は家の前の道路は土でした。
砂埃の中、何でか年1回阿波踊りが来ていました。
犬を飼っている家は少なくて、基本放し飼い。
私の家の犬もそうでした。タローといいますが非常に賢い犬で、近所をパトロールした後は私の学校帰りの途中まで迎えに来てくれていました。
町内に鎖で繋がれた犬が1匹いてて、〝あっこ(あそこ)の家の犬、かわいそうやな〟と子どもたちは言っておりました。
また、家の中でマルチーズを1匹飼っているおばちゃんがいてて〝あっこの家、お金持ちなんかなあと、これまた子どもたちは言っておりました。
そういえば家族全員出かけてても玄関に鍵をかけてなかったなぁ。
思いだすと、平成の世ではありえないことが普通でした。
さておきなんというか、いうなれば「明快にできないこと」がフツウにあちこちにあったような。
公園で遊びに交じってくるおっちゃん、ポン菓子売りの音、怪しい道、猫屋敷、犬屋敷(←これ、私の家です)、空き家、路地裏、駄菓子屋のおばちゃん……。
あのグレーゾーンと昭和人はどこに行ったんやろう?
例えば、今繁栄してる抗菌文化とかありえないシチュエーションですよ、昭和は。が、あいまいな若者を受け入れるあいまいな居場所を居心地良くさせているのはこの「昭和」といっても過言ではないです。
また若者に必要なものは〝何かできる隙間〟で、完全に整った環境って何もすることないんです。
隙間だらけでおもしろかった昭和は若者が出来ることも満載で、そのドキドキ感を少し、居場所で味わってもらうメニューを今後もたくさん作っていきたいなと思っています。
いつぞやの大台風で、階段横の壁がなぜかふくらんだプラッツ。
末永くあってほしい…。

大切なこと

私の中で居場所は〝ごった煮の美味しいスープ〟であり〝4次元彫刻〟であり、みんなが役者の〝映画〟であります。
テーマはずばり《希望》。そこまでメッセージとしてプラッツが表に出すことは普段ないですが、日常生活って探せばおもしろいこと一杯転がってたりします。
それを一緒に探すこと、探す方法を一緒に考えること、知ってたら先輩として若者に教えること、それがスタッフだと思っています。まあ、おもろいこと以外ものも転がってるから、この世はややこしいんやけど……。
ご清聴ありがとうございました。

宮武小鈴

カテゴリー: スタッフエッセイ

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淡路プラッツは『親の居場所』『若者の居場所』

一般的にひきこもり支援をトンネルに例えると、“入口—真ん中—出口”とあり、入口は本人への訪問やアプローチを含む「アウトリーチ支援」、真ん中は居場所やボランティア活動など若者本人が関わる「生活支援」、出口は体験や実習など実際に自立や就労に取り組む「就労支援」となります。

プラッツも同様に“入口—真ん中—出口”という流れで「スモールステップ型の伴走支援」を行っており、各段階に応じてより深く、長く関わる独自の特徴を持っています。

特にトンネルの真ん中部分は見えにくく時間のかかるものですが、今も昔も変わらずプラッツはそのド真ん中の『居場所支援』に重点を置いています。そこではメンバー・スタッフが渾然一体となりながら、時にまったりボチボチと、時に真剣マジモードで、一緒に“遊び”“泣き笑い”“関わりあって”います。
その中で若者たちは「返事が一言から二言になった」、「目が合うようになった」、「笑顔が増えた」など、目に見えにくく分かりにくいものですが、でも確実に経験とともに“自信の基盤”を身につけていきます。

それは逆に言えば、『居場所支援』を通して他者と関わる機会を設ければ、着実に社会性や精神的な自立を身につけることができるということであり、実際スタッフや親御さんはそんな彼らのステップアップを目の当たりにしながらその事を実感していきます。
時間はかかりますが、その過程で若者たちは自分自身のことを知り、やがて“やりたいこと”ばかりではなく“やれること”へと取り組み始め、結果的にテーマは「社会参加から自立・就労」へと変化していきます。
そこで初めて、次の段階の「就労支援」へと移行していきます。

就労支援についてはまた別機会でお伝えするとして、このように『居場所支援』ではがっつりと若者に関わっていきますが、同様に「アウトリーチ支援」では親ごさんとの関わりを重要視しています。訪問に限らず関わり方をもう少し広義に捉え、特に親ごさんへのアプローチが届くように「面談・講座・親の会」の3つのメニューを“出会いのきっかけ”として周知しています。「困っている、誰かに相談しよう」という大きな決断と勇気ある第一歩を何とか次の二歩三歩先につなげ、その先にいる若者本人へつなげるためにまず『親の居場所』であること。それが変わらずプラッツが持ち続けてきた“プラッツらしさ”であり、これからも大事に繋げていきたい伝統だと感じています。

21年目に入り、ここにきてまた毎月の「親の会」の人数も増えてきており10名を超す回もあります。
盛況なのは喜ばしいことですが、それは同時にひきこもりを中心とする“子ども若者問題”が依然解決されることなく深刻化していることを示しています。
社会的にも、一家族的にも問題が深刻なのはわかっています。
わかっていても、それでもなお、親ごさんには笑っていて欲しい、そう思います。
それは「親が笑うことなく若者本人が笑うことはまずない」と感じているからです。
だからプラッツは、親ごさんが安心して話せて、涙の中にも時に笑顔があるような『親にとっての居場所』であることを願い活動しています。

以上、改めて『プラッツは若者本人の居場所であり、親ごさんにとっても居場所であり続けます』ということをお伝えする機会を頂きました。今後、毎月“ゆうほどう”にてスタッフがリレー形式でそれぞれの思いをお伝えしていきます。今後ともよろしくお願いします。

ゆうほどう2013年11月掲載
石田貴裕

カテゴリー: スタッフエッセイ

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トライアルジョブとは?

先月からトライアルジョブを始めた若者が数名いることもあり、ゆうほどうにて再度トライアルジョブについてご説明しようと思います。
“トライアルジョブ”とは淡路プラッツの支援メニューの一つで、簡単に言うと就労実習プログラムです。
しかし、誰でもすぐに参加できる訳ではなく、ある程度”居場所”でのコミュニケーションや生活体験、またスタッフとの信頼関係も築き上げたうえで、そろそろその次を目指そうかという若者を対象に行います。

「働くこと=社会参加・自立・就労」はプラッツに来る若者たちにとって大きな大きなハードルです。
そのことに取り組むにはものすごい勇気と決断が必要ですし、仮に決断したとしてもそこからの具体的な一歩目の踏み出し方がわからないという部分があります。
そこで、就労実習の中でも一番ハードルが低く、プレッシャーの少ないプログラムを目指したのがこの”トライアルジョブ”です(実習先はプラッツと関わりのある市内の八百屋さんや映画館や銭湯や助産院など数箇所の中から選べます)。

トライアルジョブは働くことが目的ではなく、働いている大人を近くで見ることで「働くイメージを持つこと、広げること」を目的としています。
ですから、内容は仕事というよりお手伝いに近いかもしれません。
それでも、人と人との関わりである以上、ある種の責任と精神的プレッシャーはかかることとなります。
そこで、まず始める前に簡単かつシンプルな目標とプランを一緒に立てて、途中で修正も加えながら、目に見える形でのステップアップを図っていきます。

1回2時間、全8回、ドタキャン(当日キャンセル)あり。
最初はスタッフも同行し一緒に働くことで場所や人に慣れていき、2回目以降に段々と一人の時間を増やして、最終的には一人で行って一人で帰ってくることを目標とします。

また、毎回”振り返りミーティング”を行い、出来たことや課題を話し合うことでそれぞれのペースに応じた目標設定が組めることもこのプログラムの大きな特徴です。
体験そのものももちろん重要ですがこの”振り返りミーティング”はもっと重要で、若者がどの部分で悩み、迷っていて、どうやってその課題に取り組んでいくかを一緒に考えていくことがこの”トライアルジョブ”の最大のテーマだと特に感じています。

以上がトライアルジョブの大まかな流れです。始めの一歩のきっかけは難しいですが、やり遂げた若者たちから何らかの変化は感じます。自信とまではいかなくても、重ねた経験の中からイメージは具体的になり、それがまた先に繋がっていきます。
それぞれのペースとタイミングの中でこの”トライアルジョブ”メニューを使って欲しいと思います。

ゆうほどう2010年7月掲載
石田貴裕

カテゴリー: スタッフエッセイ

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出会いの不思議

自分の価値観を広げてくれたり影響を与えてくれたものはたくさんあって、例えば音楽・映画・マンガ・小説・言葉・人・景色など言い出したらキリがない。その中の一つである「出会い」について。

高校3年生の時に女子クラスになった。女子39名、男子7名。聞いた人はいいなーと言うが(特に男性は)、実際にはそんなことはなく女性パワーに圧倒される毎日で、文化祭のクラス発表では多数決で負け(そりゃそうだ)男子が女装をさせられたこともあった。

そんな肩身の狭い男性陣は休み時間も居場所がなく、やむを得ず教室の横にある非常階段の踊り場に集まることとなった(くれぐれも言っておくが女性陣に全く罪はない)。

では、男子7人は仲がいいかと言えぱそうではなく、どこかよそよそしくぎこちない。
なぜなら、第一に1、2年で同じクラスだった人がほとんどいない、いてもグループが違っていて話したことがない。
第二に思春期特有の面倒臭さも手伝って、話して深める努力をしたくない。
第三に、これはたぶん全員が思っていたことだが、「もし男子20人クラスやったらお前とは友達にならないね、だってキャラ違うもん」という姿勢だったからだ。

とはいえ毎日の圧倒的女子パワーの前に肩を寄せ合うしかない男性陣は、いつしかお互いを少しずつ理解しようと努力を始めだした。
すると確かにキャラが違う、性格もイマイチわからん、間が合わない、趣味もズレてるし、もう意味わからん。毎日が”合わないこと””認められないこと”だらけで、うまく交わらない日々が続いていった。
しかし、人というのは不思議なもんで段々慣れというのが出てくる。
相変わらずよくわからんなーという部分はありつつも、ん?…でも、ここはわかるかも。なるほど、ここは面白いな。あー、そういう考え方もあるか。別に悪い奴じゃないなあ、と少しずつ思うようになっていった。
その変化に自分自身もとまどいながら、でも同時に新しい考え方を知ることや自分の幅が広がっていくことに喜びを覚えたりもした。

あれから十数年経つが、他の”合うと思っていた入たち”よりも”変テコなキャラの男子たち”の方が結果的に自分の数少ない友人として今でも残っていることを、不思議に思うと同時に今ではとても感謝している。
やはり思い込みよりも体験をもって実感したことの方が残る、ということを身をもって知ったからだ。

そして現在僕はプラッツの居場所で、あの女子クラスだった時の体験をヒントにしながら、若者たちと関わっている。多くの若者が居場所に友達を求めてやってくるが(そうなればいいと僕も思うが)、それは確約できない。居場所は友達を作る場所というよりも、やはりいろいろな人と関わる場所であり、自分に気づき広げる場所なんだと思う。
最初はそのことに戸惑うかもしれない。でも、それは決してしんどいことなんかではなく、結果的に楽しみながらあなたの可能性を広げることが出来るいい機会であり、出会いなんだと僕は思う。
そんな出会いの不思議をこれからも伝えていきたいと思うし、それがスタッフの役割だと僕は思っている。

ゆうほどう2010年6月掲載
石田貴裕

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雑談

雑談とは?多くの若者に聞いてみたところ「わからない」とか「難しい」とか「苦手」と感じている人が圧倒的に多く、得意と答える人はまずいない。
ある若者は、仕事は出来るけど昼休みの雑談のことを考えると苦痛に感じて働けない、とさえ言う。
では、雑談は必要ないかというとほとんどの人がでもそれは必要と答える。
では、雑談とは?ためしに辞書を引いてみると天気の話やニュースの話とは書いておらず、「はっきりした目的もまとまりもない話を気楽にすること」とある。
なるほど、この「気楽に」という一言が、若者のみならず大人も含めた雑談を苦手と言う人たちのハードルを上げるキーワードになっているようだ。

プラッツの仕事とは別に若者サポートステーションのセミナーをお手伝いする機会が時々ある。
その中で僕は雑談のコーナーを担当しており、そこには毎回10人前後の若者が集まるのだが、初めて参加する彼らは気楽とはほど遠く緊張の固まりで頑張って参加し、話をする。
誰からも嫌われてはいけないというプレッシャーと戦いながら会話し、間違ってはいけないというプレッシャーも抱えながら正しいことを言おうとする。
あるいは、浮いてしまわないようにとか話題の無さが露呈しないようにと考え過ぎてあまり喋らない。
すると、会話は途切れ気まずい沈黙が流れる。いずれも気楽ではなく、その頑張りすぎるくらい頑張る姿が痛々しくもある。

そんな彼らに最初に伝えることの一つに「参加者全員が仲良くする必要はない」というのがある。
当たり前のことだが、みんな嫌われたくはないのでもちろん仲良くすることを目指す。
しかしこれ自体が「みんなと仲良く出来なければどうしよう」というプレッシャーを生み、結果的に雑談の練習どころではないという悪循環を生んでしまう。
では、彼らが目指す実際の社会はどうかというと全員が仲良しではなくいろんな人がいて、合う人と合わない人というのが必ず存在する。
しかし合わない人のことが嫌いかというとそうではなく、ただ合わないというだけだ。
仮にその人が味方じゃなかったとしても無理に敵にする必要はなく 「合わない人=敵でも味方でもない人」として社会では遣り過ごすのだが、そのことを知らない若者は意外と多い。
だから最初に先の説明とともに全員が仲良くする必要はない事を伝えると、少し雑談が気楽になる要素になるようだ。

他にも伝えることはいくつかあるが、いずれもスキルとしての概念なのでそればかりに捉われていては雑談にはならない。
そもそも正しい雑談の方法などはなく、実際は経験を重ねる中から自分で獲得していってもらうことになるのだが、練習を続ける中で自分なりのコツやスタンスを見出す若者も少なくない。
その姿を見ていると、やはり人に教えられるよりも自分で見つけた経験の方がはるかに自信になるのだということを改めて実感する。

今の自分に出来ることは雑談の方法を教えることではなく、気楽に雑談の練習が出来る場所作りと参加する若者との気楽な関係性作りだと思っている。

ゆうほどう2009年6月掲載
石田貴裕

カテゴリー: スタッフエッセイ

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